□第十三夜 翡玉のヘスペラス
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13-4 翡眼の魔王(4/4)

 
 足元が覚束ない。視界が霞む。頭が、痛い。
 いつかと同じその感覚。どこかで響くその旋律。耳鳴り。不協和音――いいや、違う。
 それは叫び。救いを求めて喉を枯らす、悲痛な慟哭。苦しんでいるのだ。悪夢の魔王のその糧となったすべてが。助けてくれ、ではなく、殺してくれと、そう懇願しているように聞こえて、私は静かに泣いた。胸には刺すような痛みが走る。
 土台、無理があったのだ。歪みを集めて生き物らしきものを作ろうと、命を繕うと、それはただ大きな歪みに過ぎないのだから。

「おお……感じるぞ」

 嗚呼……聞こえる。

「絶望に澱む心の闇が」

 歪みに軋む命の音が。

「そのすべてが我が血となり肉となる」

 そのすべてが彼の血を汚し肉を蝕む。

「理解できているかね。我が力を、我が存在を!」

 自覚できているのか。その間違いを、矛盾を。
 否、できるはずもない。だからこそ彼は“ベリアル”と――“無価値”の名を冠してこの世に生まれ落ちたのだ。

 憐れみ、だろうか。私の中に芽生えたこの感情は。
 滅びるがために生まれ、滅びるがために戦い、滅びるがために死ぬ。憎悪と絶望を撒き散らすだけの、価値なき不必要悪。その誕生は誰に祝福されることもなく、その勝利は誰に称賛されることもなく、その最期は誰に惜別されることもない。
 そんな存在を目の当たりにして、私はただ涙する。深く、深く心を沈めて、鎮めて、膝を抱えてむせび泣く幼子のように。もう何も聞きたくなどないと、耳を塞ぐ。そうして――不意に気付く。この鼓膜を震わせる、心に響く小さな音色に。

「終わりにしよう。そうここが、この無明の闇が君たちの終着点」

 ようやく出会えた。理解した。この薄闇の夜が私たちの出発点。

「さようなら。勇猛にして賢明なる虫けらたちよ」

 にたりと笑う魔王。牙を剥く砲口。そんなものには目もくれず、名を呼んで、手を伸ばす。
 いつか言いそびれた言葉を交わそう。いつかできなかった握手をしよう。

『はじめまして』

 どちらの口から出た言葉だったろう。あるいは、口にはしなかったかもしれない。お互いに、素直じゃないから。ね、そうでしょう?
 間隙に、逃げてと叫ぶマリーたちの声が遠ざかる。迫る破壊の火の熱が空に消える。冷たい風が、頬を撫でた。

 翡翠の瞳が優しく笑んで、そして――ここに魔王は、舞い戻る。
 

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