1時間目・短編小説

□歪み
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「じゃぁ、明日も早いですし、今日はこの辺りで」

「お疲れっしたー」

「したー」



解散の合図に、俺は荷物を纏め早々に席を立った

鳴りやまない携帯を握りしめ、振動が止まったのを確認してから、ずらりと並んだ着信履歴を一瞥する

机の上に置きっぱだった鞄をひったくり、挨拶もそこそこに部屋を出る

エレベーターを待つ間に、既に意味を成さないであろうメールを送った



「逹瑯」



背中にかけられた声

それとほぼ同時に到着したエレベーターに乗り込むと、声の主も俺の後を追ってきた

俺と一緒に下に降りても、すぐまた一人で上へ戻る事になるのに



「悪かったな、遅くまで引っ張っちまって」

「しゃーねーべ、ミヤ君はまだ仕事残ってんだっぺ?」

「・・・まぁ、うん」



微妙な沈黙が息苦しい

こっちは、こんな僅かな時間すら惜しいのに

早く早くと願うように標示板を見上げる



「・・・・・・だ」

「え?」



急に何か言われた気がして、反射的に聞き返す



「ヤス・・・どうだ?」

「あ、・・・あぁ」



一週間前、ヤスが怪我をした

今日の打合せが長引いた、主な要因がソレだと言ってもいい

怪我自体はちょっと縫う程度のモンだったが、診断は右手全治二週間

収録を控えたドラマーとしては最悪な状態だった



「事務所から連絡あったみてーで、明日から仕事行くって言ってた」

「・・・そっか」

「さすがにドラム触んのはまだ無理だろうけど、雑誌の撮影なら・・・手ぇ隠してもらえりゃ問題ねぇだろうし」

「アイツ・・・今お前んちにいんの?」

「いるよ。右手、包帯でぐるぐる巻きにされてっから、何かときちぃだろうし」

「・・・そういう意味じゃ・・・」



苦笑混じりに、おどけて答えると、丁度エレベーターが止まった

途中で遮断されたミヤ君の言葉は聞こえなかった事にした

握りしめたままの携帯は静かなままだ

その事に幾ばくか安堵し「お疲れ」と言葉を残して密室から脱出する



「たつお」

「うぉ、っ!」



急に手を引かれてよろけそうになったが、エレベーターの入口を掴む事でなんとか耐え凌いだ

恨めしげに後ろを見れば、懐かさを帯びた眼差しが俺を見上げる



「お前、無理・・・してねぇ?」

「なにが?悪ぃ、ちっと急ぐんだけど」



それだけ言い終えると、ミヤ君は掴んだ俺の手を解放した

離された後も、触れた手の感覚が妙に残って、二、三度強く握りしめる



「たつお・・・俺、彼女と別れた」

「え?」



足早に立ち去ろうとする俺に、用件は簡潔に述べられた

だがそれは立ち話で、しかも帰り際にさらっと聞けるような話ではなかった



「だから、戻ってこねぇか?」

「・・・それは・・・・・・ズリぃよ」



絞り出すように吐き出た言葉

なにを今更・・・


そう『今更』なのだ

あの時、そう言ってくれてたら何かが変わっていたかもしれない

もっと違う道を歩んでいたかもしれない

そう、互いの呼び名が“たつお”と“ぐっちゃ”だったあの頃に言ってくれてたら



「俺さ・・・今、すげぇ幸せなんだわ」

「・・・」

「それにさぁ、アイツ、すっっげぇバカだから、俺が見張っててやんねぇと」



笑って言うと、ミヤ君は静かに「そうか」と呟いた

それ以上の言葉も仕草もなかったから、俺はただ一言「じゃぁ、また明日」と言って、タクシーに飛び乗った





遅いよ、ぐっちゃ

全部、もう遅い
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