はなし

□ただの春
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「ひげきり、ごはんですよ!はやくひろまにいくのです!」

勢いを殺さぬままに駆けてきた今剣が、腹にしがみついたままこちらを見上げてぴょんぴょん跳ねながら催促する。そうもくっつかれてはむしろ動けないのだけれども、空腹をしきりに訴えるその姿があまりに必死で剥がせそうもない。
首に巻いた手ぬぐいを取って、軍手を外してとせっつかれるままにどうにか廊下を進んでいれば、同じように短刀たちに引っ張られる主も角から現れる。厚に手を引かれながら驚いた様子の彼女は俺の腰を見て、俺の無残な手ぬぐいを引っ掛けたままだったり泥が付いていたりする服を見て耐えきれぬかのように笑い、手を洗わせてあげてよと今剣に向かって声を掛けた。そこでようやく俺が食事どころではない格好であると気付いてくれた今剣は飛びついた時と同じ身軽さで俺から離れ、うがいもですよと言い残して軽やかに去っていく。
夏にうがいはいらないかな、と笑う主は飛び跳ねる背を見送って、厚や秋田に先に行くように促してからこちらに足を向けた。

「麦わら帽も取って、手拭いは洗濯ですね。午後は出陣をお願いしますから一式籠に入れておいてください」
「うん、畑仕事よりしっくりくるかなぁ」
「でも慣れましたよね。前は膝丸に任せきりでしたもの」

手拭いを畳みながらちらりとこちらを伺う目は刺を含んでいて、言い訳をする気も起きずについと目をそらして壁を見る。そこにはもちろん彼女の心理だとか僕の取るべき態度が書かれている訳もなく、誰かの書いた「右を見よ」という落書きくらいしか意味をなすものはない。右を見れば上を、上を見ればさらに右を、右に進めば小馬鹿にする言葉が書かれているのは経験済みで知っている。おそらく短刀の誰かの仕業だろうが、僕でさえ見上げなければいけない位置にまで落書きがあるので大太刀か槍、はたまた小さいもの好きな薙刀あたりが共犯だろうと読み取れる。 視線を追うように壁に目を滑らせた主が同じように文字を見つけ、この字は今剣ですねとおかしそうに言う。

「今剣とも随分打ち解けましたねぇ。前はあんなにつっけんどんだったのに、今はべったりなんですから」
「仲良くなれたのは嬉しいけどね。うーん、転ばないコツとか知りたいなぁ」
「岩融は誰が飛びついたって絶対転びませんよね」
「主は僕があれくらい逞しい方がいいんだ?」
「ええ、嫌ですよ。手が届かなくなっちゃいますから」

少し立ち止まった主が袖から取り出したのはハンカチで、断ることもなくその柔らかい角で僕の額をぽんぽんと触れていく。泥か汗かで汚れたそれに申し訳なくなったが、彼女がふふと嬉しそうに笑うので罪悪感よりも彼女の気が向いていることへの優越感に押された。 他に汗っぽいところはございませんか、とふざけるように乗り出してくる主の近さに少し戸惑うが、幾振もの刀剣が暮らすここではこうして構われるのはなかなか貴重な機会なもので。主も僕をからかうのが物珍しいのか積極的で、まるで気を許されているようで気温も相まって足が浮つくようだ。
……彼女が、触れたのだから。こちらから触れても、何もおかしくはないだろう。 泥でがさりとする手を上げかけて、汚れたそれを下ろしていやはや、と声をあげる。言葉を吐いても衝動はやり過ごせず、歩を止めてでも上向いて目を瞑ることでどうにか逃がしてから彼女へと目を戻した。お疲れでしたかと心配げにする彼女に苦笑で誤魔化して、今度こそ揺らすしかなかった手を挙げて彼女の前に差し出した。拍子にぱらりと砂が落ちたけれどもまあ仕方ない。誰かしらが掃除してくれるだろう。

「拭いてくれてありがとう。それもついでに籠に入れておくよ」
「あら。ありがとうございます……ああ、ではお先に失礼しますね」
「うん」

主主と遠くからでも通る声に引っ張られ、小走りで去るその背を見送る。 短い逢瀬で吹き出た汗を自分で拭えば、ハンカチから漂う甘い香りに余程動揺した。拭えども拭えども汗が止まらない。汗など垂れ流していても気にしなかった去年を恋しく思うが、それで主に見限られても困るのでその思いはすぐさま打ち消した。




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