はなし

□ただの春
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ふと庭を見れば梅がちらほらと咲いていて、漂う香りと冷えた空気を肺にできる限り吸い込んで揶揄でなく胸を膨らます。あの花をこの目で見るのは二度目で、一度目の頃の記憶ももちろんあるがこんなふうに懐かしいと思う気持ちは初めてだった。あの時は初めての事ばかりで、懐かしいと思うのは振るわれていた頃の昔話ばかり。弟よりも人形に馴染むのが早いと揶揄された実、布一枚隔てたように過ごしていた。それを見抜いていた審神者も、ほんの少し遠く過ごしていた。
花を見かけたのも偶然のようなもので、匂いにもその見目にもあまり気をやらなかったものだ。あれが咲けば春が見える。それだけ。切って捨てる事しか考えられなかった己には要らないものでしかなかった。

「髭切?」

己を呼ぶ密やかな、風に揺れる木の葉にも負けそうな声がそれでも名を呼んで催促を促す。只今、とだけ声を張り上げてジャケットを直した。この声があの頃から変わらないのは行幸か、不幸か。
あの頃とは比べ物にならない経験を身に染み込ませ、あの頃と変わらず戦場へと向かう。歴史ではなく彼女のために。そんなこと思いも知らない彼女はいつものように、沢山の刀を従えて微笑んで待っている。
その中の一振り。ただそれだけの現状。 出陣を無事に済ませた後に梅が咲いたことを知らせて、それを口実にどうにかふたりきりで話は出来まいかと浅ましく寡作する。
いやはや、一年前の僕よ、恋とはなかなかに苦しいものだぞ。



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