はなし

□ノーマルエンドの幸せ
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ペラペラと雑誌を捲っていた師匠がぱっと顔を上げて言ったのは、仕事にも学校にも関係の無い謎の疑問だった。

「おいモブ。お前、別世界みたいなのは行った事あるのか」
「え、ないですけど」

師匠の発想は結構突飛で、後々きちんと考えると分からなかったりその場で考えても分からなかったりするのがよくあったり、する。 間食に甘いものを買うかしょっぱいものを買うか真剣に悩んでいると思えば、僕の将来を見据えてアドバイスをくれる。会社の経営で頭を捻っているかと思えば購読している雑誌の漫画を深読みしていて、僕なんかでは師匠の一言からどちらかの判断なんてできやしないのだ。 霊感のない体質だと明言してからは開き直ったのか、師匠は僕にいろんな質問をするようになった。霊道は見えるのかとか、念動力で腹筋の筋肉だけを収縮できないかだとか、カエルは相撲をとるのかとか。僕にとっては当たり前のことでも師匠は興味深そうに聞いてくれるから、今日の話の類もきっと興味だろう。たぶん。

「あ、でも人の中ははいったことありますよ。師匠も見てたでしょう」
「あー、あれな。どんな感じだったんだ?ピカソとか、漫画みたいなんか?」
「いえ、普通に学校に通って勉強していじめられてました」
「んだよ。夢ねえな」

夢がある返答とはどんなものだろうかと考えていれば、転けた拍子に女の子の胸をつかんだりだとか億万長者になって左団扇で暮らすのがその代表だろうかと具体的に教えてくれる。正直あんまり魅力的に思えなくて、そうですかと適当な相槌を打ったら呆れたように息を吐かれてしまった。

「ま、思い通りになんていくわけねえさな」

冷ましたお茶を啜りながら、窓の外を眺め諦めたようにそう言う。
思えばこの頃から僕は師匠に偏った気持ちを向けていて、それがどうやら漏れていて師匠にはそれが分かっていたのだろう。僕が告白した時も、足を絡めた時も、僕の両親にばれて師匠が失踪したあの時でさえ、そう思っていたのだろうと考えてしまう。
思い通りになんていかないさ。上手くいっている気がしたって。





師匠が消えた。僕の両親に関係がばれたからだ。

父さんが息子を誑かすなと事務所に乗り込んだその日に、師匠は金庫と着替えだけ持って消えてしまった。 消えてしまった、と言っても気配を追い続けていた僕にはその動向がなんとなくは分かっていて、今現在は隣の隣の県にいることくらいは把握していた。エクボはちょうどいい距離だろうと腕を組んで頷いていて、そういうものなのだろうかと問えばそんなもんだと返される。律にもそんなものなのだろうかと訊こうとして、やめた。もとからいい顔をしていなかったし、何より、大学生になってから律は常に忙しそうだ。やりたかったことを勉強できるのは楽しいと、笑っていた顔は晴れやかだった。 もちろん両親に訊くこともできず、肉改部OBとは筋肉メルマガの話もあって交流が続いているが門外漢感が否めない。こういう疑問に一番正確に答えてくれる師匠の選択なので、まあ、きっとこれが最良なのだろうとも思う。
師匠が突然消えたことに、理不尽だと怒るお客さんがいる。無責任だと罵る業者さんがいて、寂しいね、心配だねと僕自身を心配してくれるお客さんまでいる。 そんな人達と話したこともあるし他にすることもないし、せっかくだから相談所をそのまま続けようとしたけれども事務だとか電話やネットの対応だとかが分からなくて、困り果てていればどこからともなく現れた花沢くんが細々としたことを教えてくれた。バイト代出してよといいながら手伝ってくれたものだから、一緒にピザを頼んで奢らせてもらった。以前の僕の貰っていた給料より、若干多めの支払いになった。
宣伝だとか、そんなものも分からなくてただただ事務所に居座って、たまに訪れるお客さんの話を聞いて必要だと思えば除霊した。不思議なことにお客さんが全く来ないということはなくて、話の感じだと口コミだとか常連さんだとかで成り立っているようだった。師匠がいないことを伝えると帰ってしまうお客さんも少なからずいたので、なんとなく、誇らしかった。そういう些細なことの積み重ねで、別世界なんて大袈裟な言い方しなくとも、確かに僕と師匠の世界は違うものだったのだと実感する。僕の出来ることと師匠の出来ることはこんなにも違うのだ。

僕と師匠の世界を繋げるものは、給料明細くらいだった。 中学生の時までは手渡しか夕飯だったりした給料は高校に上がる頃にはしっかりと時給が決められて、チャラチャラと音を立てる封筒に明細書と一緒に入れられて渡され始めた。金の管理くらいは自分で覚えろと、小さなノートも渡された。明細書と、仕事内容と、忘れたくないなと思ったものをそのノートに書くことにすれば、高校生にもなって絵日記かと師匠に笑われてしまった。確かに今見返せばどこをどう見ても絵日記でしかなくて、その上師匠のことばかりが書き込まれたそれはあからさまに内容が片寄っている。
ともかく、そう言った支出を書くことはしっかり練習できていたのでなんとかなってはいる。「それみろ!」とか、「やったじゃねえか」と褒めてくれるはずの人は二つ向こうの県にいて知るよしもないけれど。
思えば、師匠がくれたもので形がはっきりと残っているのはこれだけだ。毎月手渡される給与明細と、それを貼り付けるノート。恋人らしいことといえば体を寄せて撫で合ったくらい、デートだとかに行ったとしてもほとんどが仕事がらみで、僕達は本当に思い合っていたのだろうか、と今更ながらに疑問に思う。疑問に思ってから、なにも残っていないことこそが師匠の愛情表現なのだろうと気付いて、それなのにばれてしまった迂闊さが久しぶりに染みてきてしまう。勉強や相談所運営で忙しくしているうちは考えなくて済んだことなのに、ふと立ち止まるとどこに居ても師匠の残り香がするようだ。なにも物は残っていやしないのに。そこで交わした会話くらいしか、残っていないのに。

「おいシゲオ、会いに行かねぇの」
「誰に?」
「おいおいしらばっくれるのか?」

中古で買ったレジの中身と今日の売り上げを確認する手を一度止めて、頭上を時計回りに回り続けていたエクボがぐにゃりと形を変えて不満を訴える。ぐでんぐでんになりつつ鼻をほじるエクボは、投げやりなのか真剣なのか図りかねる態度でもって話を続ける。その真面目なのかどっこいの態度に師匠の片鱗を見つけつつ、小銭を数えながら耳を傾けた。

「霊幻だよ霊幻。ったく、ツボミちゃんに憧れてたまんまならこんなにややこしくなんなかったっつーのによぉ。超能力を使えるホモとかどれだけ希少価値上げる気なんだよ金にもならんっつうに」
「エクボは僕たちのこと、否定的じゃないよね」
「はあ?今更だろ。俺様が何回気を利かせて席を外してやったと思ってんだ」
「あー……。えー、ありがとう?」
「うるせえ爆発しろ!二人で末永く爆発してろリア充!」

どうしても合わない勘定を見限り、レジに鍵を掛けて仕舞う。家に帰るのはまだ早いだろうと、ソファに転がって膝を抱えた。置いていかれた漫画を読む気にはなれなかった。

「知ってんだろ、霊幻のいる所。まあ顔を合わせづらいのは分かるが」
「でも、師匠は自分で出ていっちゃったんだよ」
「あ?嫌われたとか女々しい事言うのか?」
「違うよ」

違うのだ。僕はきっと諭されるのが怖いのだ。
僕の目の前で唾的なものを飛ばして話すエクボから逃げるように寝返りを打って、ソファの背もたれに顔を押し付けて息を詰める。
師匠は誰にも黙ってこの町を出ていったのだ。まるで悪いことをしたあとみたいに。
帰り際にキスをしたのを見られてしまってから、父にも、母にも、道を外れていると何度も諭された。そんな関係はおかしいのだと、苦労が多く得るものなんて少ないのだからやめておくべきだと僕の話を聞かずに、若いうちはそういうのに憧れるんだからと滔々と説得された。
両親の話を一通り聞いてから、それでもあの人のそばに居たいのだと答えた。そしたら両親は見たこともないくらい悲しそうな顔をして、所長さんと話をしたいと静かに言われたから相談所に伴った。その先で師匠は両親にひたすら淡々と責められ、僕が口を開くと何も言うなと目で伝えてきて、そうして肯定も否定もせずに全部聴いていた。反論が返らないのでそんな状態は長く続かずに、静まり返った室内で師匠がぽつりと「すみませんでした」と謝ったので時間も時間だからと両親は僕ごと引き上げた。そうして次の日には師匠は隣の隣の県に行ってしまっていたのに、僕はその気配を追いながら動くことが出来なかった。

「嫌われてないんならなんで行かないんだよ。あんなに毎日甘々してたくせにくそ爆発しろ」
「甘々……?ううん、ともかくダメなんだ。僕が師匠に会ったら」
「お前何歳になった?お伺い立ててるっつうんなら霊幻が浮かばれねぇぞ?」
「幽霊が言うと重みが違うね」
「だろ」

流石に大学生にもなれば門限は日付を跨がないというくらいに緩まっていて、守らなくたってそこまで叱られもしなくなったけれど朝帰りはいい顔をされない。僕も律もそれは分かっているし、あの日まではしっかりと守っていた。今では、帰るのは気が重くて相談所に泊まり込んだりでまちまちだ。
今日もできれば帰りたくない。いつも通りを意識しすぎる両親と居るのも落ち着かないし、律も僕にまで分かるように気を使ってくれるのがまた申し訳ない。こうして相談所を続けていることだってよく思われていなくて、けれども自由にはさせてくれている。どうしてだか師匠のことだけが許されないことらしかった。
ぼんやりと霧散していた意識を集めて、師匠のところへと飛ばす。知らない街の気配は精神を疲れさせるけれど、ふわりと引っ掛かった慣れた気配になおさら安堵する。寝ているのか気配はどことも知れず動かないままで、荒れているような様子もなかった。

「はー、そこまでしといて追っかけねえとか、ただのストーカーだろーによぉー」
「えっ……僕ってストーカーだったの……?」

エクボの愚痴とも説教ともつかない話は長々と続き、本当に終電に間に合うぎりぎりの時間までそれを受けていた。いくつかの言葉に納得しながら、やっぱり一番納得できるのは師匠の声と言葉だなと、エクボに失礼なことを考えてしまった。
真夜中の一時にようやく帰宅して、皆寝てることを祈りながら居間を覗けば明かりが付いていた。少し残念に思いながら戸を開ける。

「兄さん、お帰り」
「ただいま、律。どうしたの、こんな時間なのに」
「うん、ちょっとお腹空いちゃって。兄さんも食べる?」

茶碗を持ちながら首を傾げる律に頷いて、そこに父も母もいないことに息を付く。じっと僕を見つめる律には全部分かっていそうで、それなのに律は着替えてきなよとだけ言ってこちらに背を向けた。
荷物を置いて、パジャマに着替えて居間に戻ればテーブルの上にお湯を注ぐばかりのお茶漬けの用意が出来ていて、席に着いていた律がにこりと笑って箸を持ち上げた。タッパーから鮭を取り出して、こちらに傾けるように見せるので首を振っておく。代わりに梅干のタッパーからひとつ摘んで自分の茶碗に乗せて、お湯を梅干目掛けて掛けてからいただきますと言いつつ口を付ける。深夜に食べるお茶漬けは、一番美味しい。次点あたりでラーメンもこの時間がいいけれども、仕事終わりの二人で食べるものには敵わない。

「今日も相談所?」
「うん。メールで予約あった人と、飛び込みもあったよ」
「すっかり相談所の運営慣れたみたいだね。就職飛ばして、起業しても兄さんなら大丈夫そうだ」
「どうかなあ、たぶん、僕には向いてないよ」

今日だって愛想がないとクレームをつけられて、延長料金はいくらかと訊かれてもすぐには答えられなくて、対応が遅いし若いやつだけでは不安だと言われたしそれらに対しての対処がわからなくてとても困った。前の人はよかったのにと面と向かって言われてしまって、それにどう返したらいいのか分からなくてとりあえず笑うばかり。確かに師匠がやっている時はそんな風に詰まったことはなくて、前の人がいいと言われても、しょうがないと思う。

「今日だって勘定合わなかったし、お客さん怒らせちゃったし」
「最初から何だってうまくはいかないよ」

梅干を崩す手をとめてしまってから、ゆっくりとお茶漬けを流し込んだ。 うまくいかないもんだ。師匠がそばにいたっていなくたって。
茶碗を洗って明日の用意を整えて、寝る前にもう一度師匠の気配を追う。相変わらず静かで、凪いでいるように動きがない。
一言、僕を呼んでくれれば飛んでいくのにと思いながら添うのに、師匠は僕を呼ばない。あの時だって、今だって。 だから僕はどうしたらいいのか分からなくなる。






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