はなし3

□ひとりぼっち
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マンションのベランダの手摺はどこか錆びれた臭いがする。顎をおいてもたれ掛かればなおさらで、背を丸めた落ち着くような落ち着かないような体勢のまま下を眺めた。

まるで蟻地獄だ。
地面に空いた途方もない大きさの穴が見ているうちにもじわじわと広がり、廃墟も真新しい店も車も飲み込みながら成長を続ける。ああ、世界が終わってしまうと考えながら、錆びれた臭いを嗅いでただそれを眺める。人も犬も牛も落ちる。乳母車も母親も若者達もポロポロと落ちていく。
隕石なら砕けばいい、この穴を引き起こしたのが怪人ならそれを倒せばいい、地震なら同じくらいの力で殴り付けてしまえばいい。だがこれはただの穴だった。広がり続ける穴があるだけで、俺には何も出来ないと知っていた。
穴を見つめるのにも飽きて、空を眺める。ただの、太陽の見えない曇り空だ。雨でもなく晴れでもない。ただ錆の生臭さばかりを強調するように、湿った空気をここまで送り込んでくる。無力だと思った。清々しいほどに。もう一度穴に視線を落とす。もうこのマンションが呑まれるまであとわずかだ。
逃げ場もなく、ただ待った。空まで呑みそうなその穴がここに到達するのを見守った。





どうして二度寝とはこうも悪夢を見やすくなるのかと嘆きながら体を起こし、背筋を伸ばすため立ち上がり上体を反らせる。目覚ましよりも一時間早く起きたところで観念して起きてしまえばよかったのだよかったのだと知っていても、布団に抗えるだけの精神力を持ち合わせていなかった自分が悪いのだ。
どうすることも出来ずに、世界が終わる夢を見た。ストーリーも緊迫感もないそれは悪夢と言ってしまってもいいものかと悩むほどに静かなもので、それでも起き抜けにここまで不快に思うのだからやはりまあ悪夢なんだろう。
不快感に思わず顔をしかめさせるが、そんなことをしていようと夢の世界が救える訳でもなくこの家に溜まった家庭ごみが消えるわけでもない。気持ちを切り替えるのが無理だとしても生ゴミは臭うのだから、結局鳴り損ねた目覚ましを止めてとにもかくにもごみ袋を二つ抱え外に出た。もちろん外には穴などなく空はいっそ気持ちのいいほどの晴天で、走り込みついでに遠出でもするかと今日の予定をぼんやり考えた。


「おはようございます先生。ゴミ出し、お疲れ様です」

「おーおはよう」


相変わらずの堅苦しい挨拶に半分反射のような挨拶を返し、味噌汁の匂いに空腹を覚えて手を洗い食卓につく。布団はすでに畳まれていて、あとは俺が布巾でテーブルを拭いて箸を並べておけばやることはなくなってしまう。のんびりとニュースを見ながらジェノスが卵をくるくる巻くのを横目で眺め、よくもまあ綺麗に巻けるなあと感心しながら彼が味噌汁の火を止めるのを確認して立ち上がる。茶碗を運ぶのを手伝おうとしたのだけれども今日も止められ、結局座って食卓に食べ物が並ぶのを待つはめになる。沢庵付けに卵焼き、金平、なんとなく買ってしまった辛子味のふりかけ、ホウレン草のおひたし、焼き鮭に昨日のお勤め品のたらこまでも並ぶものだから豪勢な気がする。最後に味噌汁が手渡され、ジェノスが座るのを待ちいただきますと箸を付ける。午前中の降水確率がゼロだということで今日は布団を干してからパトロールに出て、ジェノスとともに遠くまで足を運ぶ。そのわりには何事もなく犬の散歩でもしてきたかのような心持ちで自宅に帰り、ジェノスが昼食を作るというのでその間に干していた布団を入れてしまおうとベランダに立つ。
世界は終わらない。午後からは突発的な雨が降るとかいっていたけれども予兆は見えず、鉄臭さはなく干した布団から眠気を誘う匂いばかりが漂う。手摺の上にもっこりと鎮座する布団にのし掛かり、沈みこむ感触を楽しみながら階下を眺めた。何てことはないいつもの廃墟だ。我が物顔で飛び交うカラスがいて雀が逃げて、遠くから体育か何かの掛け声と鐘の音が小さく聞こえる。給食の時間か、とぼんやり思えば台所から醤油の焦げた匂いが漂ってきた。今日の昼食は紅しょうが多めの焼きうどんと朝の味噌汁だ。

昼食の用意が出来ました、とジェノスが呼びにきて、手招きして同じように布団にのし掛からせる。分かりやすく戸惑うジェノスに干した布団気持ちいいな、と声を掛ければ、そうですねと同意が返ってきたのでよしとする。だらけるのに理由があってたまるかと一人納得しながら口を開いた。本当に何気ない拍子に。


「今朝さ、変な夢見たんだよ」

「どのような夢でしょうか?夢診断などの知識はありませんが必要なら調べ」

「いやいやいやそんなんじゃねえから。ただこう、わーっと世界が終わっちまう夢」

「それを先生が救われるんですね!」

「いや、ぼーっと見てた。あれは無理だわ」

「無理ですか」


何故か意気消沈といった様子で布団に沈み込む弟子に、あれは無理だったわーと自分でも清々しく思えるほどすっきりと宣言する。先生に救えないのなら俺にも無理でしょうねという呟きにも無理だろうなーと適当に返した。


「こっから穴に全部落ちてくのを眺めてたんだよな。一人で」

「一人でですか」

「そう、なーんかこう、虚しくてなあ」


夢のことをどうこう言っても仕方ないのだが、ここでこうして同じように見下ろすとあのときの自分の感覚と比べてしまう。ここにはふかふかの布団があって、空は相変わらず晴れていて、部屋からは焼きうどんの匂いが漂っていて、隣には弟子が俺の真似をして全力でイケメンにあるまじき体勢でいるにも係わらず。
何となしに虚しく、虚しいついでに寄りかかっていた布団を中にいれるため腕に抱える。日に当ててふくれた布団は一枚を抱え込むのがやっとで、埃をたてないようそっと畳むと続くようにジェノスが自分の布団を抱えて中に入ってきた。


「どうしようもなく世界が終わるなら、俺は先生とそれを眺めたいです」

「いや夢の話だから」

「それなら尚更お側にいさせてください。夢の中でなら先生の助けになれるかも知れませんよ」

「俺のためなら死ねるーってか。いや、俺だけ救ってどうすんだよ。ヒーローだろ」

「先生が無理なら俺も無理です」

「まあそうか」


そうもあっさり諦めていいものだろうかとも思うが、まあ、夢の話でしかない。
海草サラダも作ったんで出しますね、というこれ見よがしなジェノスの声にうるせーと返しながら、今度こそ配膳を手伝おうとシンクに並ぶうどんが盛られた皿を引っ付かんでテーブルに並べる。いつの間に作ったのか手作りだというドレッシングも運んでしまって、いつもの席に座りテレビを眺めてジェノスが戻るのを待った。





だくだくと、真っ青な水が世界を多い尽くしていく。これも俺には無理だなあ、と呆れるような気持ちでそれを見下ろした。このマンションが完全に飲み込まれるまでにはまだ時間が掛かるだろうが、他の廃墟は背が低いからか次々に飲み込まれて沈んでいく。夜だ。水ばかりが光っているのか下から照らされるように明るい。
沈んだものは浮き上がることなく、水面は音もなく波打ちただ様々なものを飲み込んでいった。自室に添えつけてあるベランダの手摺に頬杖をついて、水の中の老若男女、馬とか猫とか鯨だとかに同情しながらそれを眺めて、俺達ももうすぐそちらにいくからと変な言い訳をする。
忘れた頃にちゃぷん、と足音で聞こえて、マンションも飲まれ始め傾いていることに気付く。ああ、逃げ場はなくなってしまった。
残念だったな、という意味合いを込めて隣で突っ立っているジェノスに笑いかけたが、ジェノスはそれに微笑んで応えた。その笑顔に込められたものが何か分からずに、マンションは傾いていく。もうすぐ全て沈んでしまう。ジェノスと並んで手摺に凭れて、寄り添うようにただ沈む様を眺めた。言葉もなく、そもそも必要なく、最後くらいは離れろよと伝え損ねたまま全部が沈む。それでいいのだと言い聞かせるように飲み込まれる。
水の中でこちらに伸ばされた機械の腕をぼんやり見つめる。俺だけ救ったって、なあ。



14.04.02

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