憧憬之華
□肆
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《憧憬之華・肆》
いつだっただろう。
彼女の優しい微笑みに、欲や打算が無いと気づいたのは。
女全てが敵にしか見えなかった僕にとって、ただ純粋に笑う彼女は眩しく映った。
『――殿下。今日より皇太子という身分はお忘れ下さい。御身のため、ただの貴族の子息としてお過ごし下さいませ』
視察の際に受けた矢傷から回復した時、前宰相、シーゲル・クラインは僕にそう言った。
王都を離れたクライン領に身を寄せていても、クライン領は中々発展し、王都貴族や商人の出入りも激しい。
皇太子の安否は不明となっている現状では、捜索に来る貴族や私兵もあるだろう。
クライン邸に引きこもることが必ずしも安全だといえないと、前宰相は言った。
引きこもるような生活をして、皇太子、次期皇帝になるための教育は得られないとも。
宮廷を離れることができたのだから、宮廷で経験できないことを身を持って学んでほしい、母もそれを望んでいた、と教えてくれた。
僕は宮廷を出たとしても暗殺を待つ日々に変わりないと思っていた。
不用意に部屋を出ることもなく、飲食にも十分に気をつけなくてはならないと、思っていた。
しかし前宰相の教育方針は違った。
日中、勉強以外で部屋に篭ることを許さず、庭か市井に出された。
庭に出る時は前宰相の一人娘である彼女が必ず近くにいたし、市井に出る時は三つ子の息子たちと一緒だった。
目立つような護衛はつかず、すれ違う人間全てが兇手に見えて仕方なかった。
一歩間違えれば、極度の対人恐怖症に陥っていたかもしれない。
『――こら!ちゃんと野菜を食べなきゃ駄目だぞキラ』
あの日の言葉を境に、前宰相は僕の身分を本当に忘れてしまったかのように振る舞った。
温かい食事に中々慣れず、少食ぎみになっていた僕の口に、苦手な野菜を突っ込んだりするようになった。
宮廷であったなら不敬罪で即刻処刑台行きになるような行為を躊躇いなくする前宰相に、僕は戸惑った。
しかし幼い頃の順応力というものは凄いもので、ほんの数ヶ月で、不敬な態度も行為も気にならなくなった。
危険の無い平和な生活を、僕は受け入れることができた。
友と学び、遊び、悪戯で皆を困らせる。
皇太子として隙や弱みを見せれない宮廷とは、何もかもが違う生活に、僕は馴染んでいった。
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