憧憬之華
□肆
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『――わたくしは桜が大好きですの』
クライン邸に身を寄せ、一年が経った頃。
いつものように庭で桜を眺めていると、彼女は唐突にそう言った。
庭を散歩する時は決して話し掛けてこなかった彼女が初めて口にした言葉がそれだった。
屋敷内ではいくら無視しても、遠ざけても、話し掛けて来る彼女は何故か、散歩の時だけは黙って後ろについていることが多かったのだ。
珍しいことに、僕は内心すごく驚いた。
『………何故?』
気づいた時には、後ろを振り向き、彼女を見つめていた。突然振り向いた僕に驚きもしないで、彼女は笑って言った。
『お母様がわたくしを桜の精とおっしゃって下さいましたの。それがとても嬉しかったのです』
いつでも笑っている彼女。
何を考えているのか解らないから、苦手だった。
でも。
母親を思い出しながら、桜を見ながら笑う彼女は、哀しそうに笑っていた。
その笑顔は普段の笑顔とそう変わらないようだったけれど、僕には哀しそうに見えた。
たった九歳で、哀しいのに笑う少女。
笑顔の中に哀しみを殺そうとする年下の女の子。
女の笑顔全てに欲と打算が隠れていると思っていた僕にとって、彼女のその笑顔は衝撃的だった。
桜を一人眺めては花弁を積もらせていた彼女はずっと哀しみを抱いていたのだろうか、そう思うと辛くなった。
『キラは?桜はお嫌いですか?』
哀しみを隠して心配かけまいと微笑む少女に、僕が忌み嫌う欲や打算があるはずがない。
『……好き、だよ』
あの時、僕は、桜を好きになった。
桜を好きだと言いながら、哀しげに見つめる少女が好きな華を、僕は一番好きになった。
宮廷を出て一年。
僕は好きになった華の下で、最後まで持っていた疑心を棄て、心から笑うことができた。
そして毎年、彼女と一緒に桜を眺めることにした。
一緒に薄紅色の花弁を纏い、一日中ずっと。
僕は彼女に一人で桜を眺めていてほしくなかった。一人で、哀しみを抱いていてほしくなかった。
哀しくても、二人でなら。
彼女の哀しみは軽くなる、と思ったから。
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