憧憬之華

□零
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《憧憬之華・零》








この世で最も好きなモノ。


―――紫の瞳。








真っ白な絹の衣裳に金糸や銀糸で細かな刺繍が施され、息を呑むほど美しい仕上がりになっていた。


侍女の手によって肌には白粉が、唇には紅が、塗られていく。





癖の強い髪にも櫛が何度も通され、一人では解くこともできそうにない形に編み結われ、金銀の台座に輝く貴石や真珠の簪や髪飾りが飾られる。


首回りや耳、腕、指、身体の至る所にも飾りが施される。








お美しいですわ姫さま、と侍女の感嘆の言葉に、紅が乗せられた唇がゆっくりと孤を描いた。



仕度を終え差し出された手を彼女は一瞬の躊躇いの後、優雅な動作で握り返し、立ち上がる。







シャラン、と髪飾りが音を成した。




部屋を出れば父親が瞳に涙を滲ませ、腕を広げ彼女を包み込んだ。





幼い頃から憧れていた純白な婚礼衣裳。


幸せな花嫁が身に纏う、幸せな衣裳。


しかしそれは夢幻だったのだ、と彼女は父親の抱擁の中で思う。








国の重鎮ばかりを輩出して来た名門の家に生まれ落ちた瞬間から幸せな結婚など、約束されていないのだ、と婚礼衣裳を身に纏った自分を姿見で眺めた時、思い知らされた。







想いを寄せた方と結ばれたい、到底叶うことのない夢を持ち続け、その想いを捧げたい相手にも巡り逢った。





しかし巡り逢っただけで終わってしまった。




妙齢になり、婚礼を意識し始めた途端、父親から縁談を申し渡された。








都から遠く離れた蓬蓮の総督との縁談だった。







父と歳がそう変わらず、第三夫人まで持つ相手との突然の縁談。





そんなものは嫌だ、と跳ね退けたが、父親の強い眼差しに射抜かれ、自室に戻ろうと上げた腰は固まってしまった。






宰相位まで上り詰めた者の威厳ある態度に、声に、彼女は逃げる術を奪われたのだ。



白い頬には幾筋もの涙が伝い、落ちる。






痛ましい娘の姿に父も眉を寄せた。




しかし決まったことだと、己に言い聞かせ、娘の背を優しく撫で摩った。










どうか彼のために嫁げ、と一言告げれば、涙を溜めた湖水の瞳が大きく見開かれる。



彼を想うなら嫁げ、と重ねて告げれば、見開かれた湖水の瞳が歪み、やがて閉じられた。





肩を震わし嗚咽を漏らしながら、彼女は弱々しく頷いた。








彼女は父親の言葉で気づいたのだ。





想う相手にとって己は弱みになる、と。



重い宿命を負った想い人の重荷に、枷になることは、彼女にとって決して受け入れられないものだった。







例え意に添わない婚礼と引き換えにしても、それは回避しなくてはならないことだった。





想い人のために、彼女は幼い頃からの夢を諦めた。




そして想い人にもう何も言うまいと、心に誓った。変な事を言い、惑わせてならない。





今だけだ。彼を想い涙を流すのは。





そう心に誓い、彼女は肩を震わせ、嗚咽を必死になって押さえ込んだ。








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