憧憬之華
□零
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婚礼の準備は秘密りに、そして瞬く間に整えられた。
折しも、想い人である彼が生家に戻る前日に、彼女は遠い地へ嫁ぐことになった。
輿入れの前夜、部屋に忍んできた想い人に酷く詰られても、彼女は涙を流さなかった。
想うだけで気持ちを一度として言葉にしなかった彼女は後悔した。
君を想っていたのは僕だけだったんだね、と悲しげに告げられ、胸が締め付けられ、呼吸が苦しくなった。
直ぐに想いを告げたくて、口を開いた。
しかし何も紡がれることはなかった。
父親の前での覚悟が邪魔をした。
開かれた口は愛を紡ぐことはなく、想い人の名前を紡ぐことはなく、想い人の敬称だけを紡ぐ。
もう二度と会うことない、と必死に言い聞かせ、彼女は礼をとった。
伏せたまま動かずにいると、目の前の気配は無くなり、カタンと自室の窓が音を成した。
もう二度と、彼がそこから出入りすることはない。
もう二度と、彼と語らえない。
彼女は一人になり、流すことを辞めたはずの涙に気づいた。
込み上げる嗚咽を漏らさぬようにと手で必死に蓋をし息苦しくなる中で、窒息して死んでしまいたいと願った。
しかし気を失うだけで、死ねなかったということは、侍女の呼び声で覚醒してから気づいた。
婚礼の準備に忙しなく動き回る侍女を眺めながら、花嫁は出来上がった。
家族に見送られ、輿の中で彼女は、想い人の姿を捜してしまった。
漸く見つけた想い人は、冷めた軽蔑の眼差しを寄越した。
好きになった優しげな紫結晶の瞳ではない、冷水を浴びせられたように身を震わしてしまう眼差し。
遠く離れていても憎悪を感じ取れる瞳から逃れたくなっても、彼女は逸らせなかった。
優しげな瞳は目が離せないほど美しいが、憎悪に染まった瞳は見る者を捕え離そうとはしない美しさを持っていた。
胸に熱くする愛しさを、痛みを、彼女は忘れまいと誓った。
輿入れすれば二度と逢うことないと、逢うことが叶わない相手になるのだと解っていた。
どんな姿でも愛した男を目に焼き付け、甘く哀しい想い出だけを頼りに生きていこう、と思った。
遠く離れた地で、彼の無事を、栄光を祈っていこう、と。
彼女は蓬蓮の地で空ばかり見上げた。
空はどこまでも繋がっているから、彼も見ているかもしれないから、と飽くことなく続けた。
離縁されるその日まで。
紫凰国名門貴族令嬢、ラクス・クライン。
紫凰歴997年。
齢、22。
若くして離縁されてしまった彼女は、二度と戻らぬと思った都の門を潜ることになった。
続