月無夜

□月無夜
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「………き、ら」





「ラクス?」










間近に迫ったキラの胸の中にラクスは凭れかかった。






華奢に見られがちだけれど筋肉がついた固い胸板。一年間、ほぼ毎日、キラの胸に身体を預けて来たラクスにとって、そこはとても安心できる場所だった。
















「…少し、疲れました。こうして、休ませて下さいませ」







甘えればいいのに、羞恥心が邪魔をして、素直になれない。だからちょっとだけ大袈裟な嘘をつく。






ラクスは体調不良には慣れっこで、ちょっとした気分の悪さや怠さなら平気であるが、今はとてもキラの胸の中にいたかった。








固いけれど、温かい、トクントクンという心臓の鼓動を聴ける胸の中にいたかった。












動いていない心臓に、空っぽの胸の中に絶望するのは一年前のあの夜だけで十分だ。








生きている、側にいる、という証明。








それが心臓の音を、鼓動を聞くという行為だった。















「昨日は忙しかったの?」








キラは胸に凭れかかってきたラクスの髪を優しく梳きながら問い掛ける。









規則正しい鼓動の音に、眠気を感じていたラクスは“昨日”を思い出した。










少しでも現実逃避していたいと思っても、結局はそこに、“昨日”に引き戻される。











考えたくないのに、思い出したくないのに、“昨日”は頭に入り込んで来る。

















「‥‥昨日はいつも通りでした。わたくしは、書類確認だけですわ」







世界的大企業クライン財閥の総帥に就任して一年。ラクスに襲い掛かったのは何も怨霊たちだけではなかった。






クライン財閥から甘い汁を啜ろうとする大人たちを撃退し、財閥をより強固な物した。






たった一年でクライン財閥はラクスの下、新たな体制に整えられ、どの企業も安々と手を出せなくなった。













女子高生の小娘と侮って痛い目にあった企業は大中小とさまざまだが、かなりの数がいたはず。










経営者として類い稀なる才能を見せたラクスだが、幼い頃から叩き込まれたことを実践しただけという。











クライン家は長女のミーアが継ぐと誰もが思っていたが、それは周囲の勘違い。









クライン家の当主になるべく育てられていたのは、ラクスだった。









だからこそ、ヒビキ家の跡取りであるキラとミーアの婚約が結ばれたのだ。















「‥帰る?」





「いいえ、1時間、サボるだけです」











当主となることを隠されていたラクス。







当主になれないことを隠されていたミーア。











誰も気づかない歪みは、誰も気づかないように大きくなり、あの晩、赤い月が上った夜、すべてを壊したのだ。










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