金色のコルダ〜柚木編〜

□柚木編〜7〜
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なかなか返事をしようとしない柚木に火原は尚も誘い続けた。

「この前の学内コンクールは競い合う同士でさ…でも、競うだけじゃなくてそれぞれの楽器の素晴らしさもわかって、トランペットと他のみんななの楽器を合わせたら、もっともっと音楽が広がって気持ちいいだろうなぁって思ってたんだ」

「そんなことは、オケ部なんだからわかってたはずじゃないのかい?」

「もちろん、オケはオケですっごい好きなんだけどさ、2、3人くらいでやるアンサンブルだと、こう…もっと音色が緊密っていうか、アットホームっていうかさ……少人数だからこそできる何かがあるって思うんだ!」

柚木は笑った。火原の言葉は拙いが、言いたいことはわかる。

確かに、あのメンバーでやるアンサンブルは興味深い。

それぞれが稀に見る才能と個性を持っているから、きっと練習次第では素晴らしいものに仕上がるだろう。



(だが、俺は……)





火原に少し考えさせてくれと言い、柚木授業が終わると、ひとり屋上へと上がった。

幸い、屋上には誰もいなかった。考え事をするには最適だった。



今日は早く家に帰るように言われている。

紫を呼んでいるから、ふたりで今後のことを話すようにと。



今後のことも何も……柚木は紫との未来など考えるつもりもない。

家が大変ならば、自分も柚木家の一員として、できる限りのことはしたいと思う。

だが、だからといって身売りのようなことはできない。

紫との結婚もそうだが、もうフルートをやらせる余裕もないと、はっきり言われた。

星奏学院にはこのまま卒業までいることにはなるが、今までのように家に帰ってもフルート中心の生活をする時間はとれそうにない。

否が応にもフルートは断念しなければならない。

だが、今までは大学は音大以外を選んでもフルートを続ける気さえあれば、なんとかなると考えていた。

プロになることは、さすがに無理だろうが趣味程度に吹くくらいならば許されるだろうと。



だが、ここにきて、その選択肢も消えた。

自分自身でフルートを諦める前に、目の前でばっさり音楽への道を断たれて初めて、柚木は自分が思っている以上にフルートを愛していたことに気がついた。

今まで当たり前のように唇に馴染んでいた金色のフルート。

あまりにも日常的になり過ぎていて、吹けることへの感謝を忘れていた。



フルートを吹かない自分など想像できない。

呼吸をするようにフルートを吹いてきた自分は、果たしてフルートを吹かずにいられるだろうか。



柚木はケースからフルートを取り出すと唇にあてた。

目を閉じていても吹くことができる……今まで何度となく吹いてきた『アダージオ』を柚木は万感の想いをこめて演奏した。



吹き終わると、いつの間に来ていたのか……拍手と共に香穂子は柚木のもとへまっすぐ歩いてくると背中に頬を押し付けて腰に腕を回した。

「香穂子……」

「柚木先輩を探してたら、フルートが聴こえてきたから……邪魔しちゃいけないと思って聴いてたんです。でも、聴いてたら、なんだか悲しくなっちゃって……」

柚木は香穂子の手を腰から外すと前に向き直って、改めて彼女を腕の中に抱きしめた。

「前にもそんなようなこと言っていたな。綺麗な曲だけど、悲しくなるって……俺はこの曲が好きだよ。吹いていると気持ちが落ち着く」

香穂子を腕の中に抱いていると、このまま誰も知らないどこかへふたりで消えてしまいたい想いに駆られた。

腕に力を込めると、香穂子は驚いたのか顔を上げて柚木を見つめた。

「柚木先輩?」

「…………香穂子……もし、俺が……」

「柚木先輩が?」

だが、柚木は口にしかけた言葉を寸前で噤んだ。

言っても仕方がないことを言って、香穂子を不安がらせたくはない。

「いや……それはそうと、火原から聞いた。アンサンブルコンサートをやるって……本気か?」

「あ……は、はい。柚木先輩にも話さなきゃって思ってたんですけど……先輩は受験生だし、その……フルートを…」

香穂子が言いたいことはわかる。

柚木は香穂子の頬を軽く抓った。

「痛っ!」

「それはそうだけれど、なぜ、俺がそのことを火原から聞かなくちゃならないんだ?一番先に俺に話すべきだろう?」

「は…はい。すみませんでした。あ、でも、じゃあ…柚木先輩もアンサンブルに…」

「ストップ。それはまだ保留にしておいてくれないか。いろいろ……今、立て込んでいてね……もう少し、考える時間をくれないか」

「はい……わかりました」

見るからにシュンとしてしまった香穂子の頭の上に柚木はキスを落とした。

すると、香穂子は、ほっとしたように笑った。

「?……どうかしたのか?」

「あっ…いいえ、なんでも……ただ、今朝の柚木先輩、ちょっと様子がおかしかったから心配してたんです」

「俺の様子が?」

香穂子に気取られまいと平静を装っていたが、どうやら完璧ではなかったらしい。

「はい。だって、いつもは……」

なぜか、香穂子は赤くなった。

「どうした?言ってみろよ」

初めは口籠っていた香穂子も再三、柚木に問われて仕方なく答えた。

「だ、だって……いつもだったらキ…キスするのに……今朝は」

柚木は微笑みを浮かべると、唇が触れるだけのキスをした。

「残念だけど、いつ誰に見られるかわからないからね。これくらいで我慢してくれ」

「柚木先輩……」

頬をほんのり桜色に染め、初々しく恥ずかしがる様子は、とても何度も抱き合ったことがあるようには見えない。

細く頼りなげな肩から腰にかけては、こうして見ていると男などまるで知らない無垢な少女にしか見えない。

柚木は香穂子の腰に両腕を回し囲うように腕の中に閉じ込めた。

できることなら、他の誰にも見られないように閉じ込めて隠してしまいたい。

柚木は瞳を細めた。

(本当にそうしてしまおうか……)

「あの柚木先輩?」

香穂子は、柚木がとんでもないことを考えているとは知らず小首を傾げた。

「……そうだ。それより、肝心のメンバーは揃ったのか?」

柚木は香穂子を開放すると話題を変えた。

このままでいたら、本当に離したくなくなりそうで恐ろしかったのだ。



「あ、はい!柚木先輩以外は全員」

「そう……」

では、月森も承諾したのか。

(ま、香穂子がいるなら当然か)

「まあ、よかったじゃないか。俺もできるだけ協力はしてやりたいさ。だが、もしもの時には、それ相応の演奏が出来る人を紹介してやろう。安心するといい」

「……はい」

やはり香穂子は淋しそうだった。

柚木は香穂子の顎に手をかけて顔を上向かせた。

「…そんな顔するな。それよりも、肝心のソロコンサートの曲の方は大丈夫なのか?」

そう訊ねると、香穂子の顔色が変わったような気がした。

「あ……は、はい」

柚木は不審に思ったが、恐らく思うように練習できていないせいだろうと考えた。

「もし、俺の力が必要なら遠慮なく言えよ。練習を見てやることくらいできるからな」

「だ、大丈夫ですっ……心配しないでください!それよりも、アンサンブルのメンバーなんですけど、ヴィオラ奏者が足りなかったんです。でも、協力してくれるって人がみつかって…」

香穂子は嘘が下手だ。だが、しばらくは様子を見ることにするつもりだった。

香穂子の強がりがいつまで続くか見物だ。

「へぇ……良かったじゃないか。俺の知っている奴か?」

「いいえ、たぶん柚木先輩は知らないんじゃないでしょうか。彼、普通科なんですよ」

「普通科?それはまた……」

よくよく普通科には、才能が埋もれているようだ。

土浦然り、香穂子然り……。

きっと、そのヴィオラ奏者とやらも音楽科に負けないくらいの才能の持ち主なのだろう。

だが、男だというのが少々、気に食わない。

柚木としては、これ以上、香穂子の周囲に群がる男を増やしたくなかったのである。



「加地くんっていうんですけど、ついこの前、転校してきたばかりなんですって」

(加地?どこかで聞いたような気がするな)

よくあるような名字ではない。

代議士に同じ名前の人物がいるが、まさか関係はないだろう。

(…とは思うけれど)

「香穂子、今日は練習はないのか?」

「はい。明日の放課後、顔合わせする予定なんです」

「それじゃ、今日はもう帰れるのか?」

「あ、いえ……今日はこれからソロコンサートの曲を練習しようと思って」

香穂子の練習が終わるのを待って一緒に帰りたいところだが、直接、紫に断るためにも今日は家に帰られなければならない。



「そうか。じゃあ、明日、俺もその顔合わせとやらに出席しよう」

「本当ですか!?じゃあ、明日は一緒にいられる時間が増えますね!」

香穂子の顔が輝いた。

こんな些細なことでも喜んでくれる香穂子が愛おしい。

「あいにくと今日は用事があってね……つきあってやれない。その代りに……こっちへおいで、香穂子」

「はい?」

香穂子を引き寄せ抱きしめ、囁く。



「上手く弾けるおまじないだ」

額にかかる前髪を軽く払うと、柚木はそこへ唇を落とした。

だが、それは香穂子のためというよりも、自分自身を勇気づけるためのように思えた。



(おまえを失うわけにはいかない……そのためにもなんとかしなければ)



柚木は覚悟を決めると香穂子から離れた。

「また明日。おまえに会えるのを楽しみにしている」

「はい、わたしも……あ、あの…今日の夜、メールしちゃダメですか?」

話し合いがそう簡単につくとは思えなかった。

「……時間が空いたら、俺の方から連絡する。だが、もし12時過ぎても連絡がないようだったら、いつまでも待っていないで休むんだぜ」

「はい!待ってます!」

「ああ。先に行ってくれ。俺はもう少し、ここで練習するから」

「はい、わかりました。先輩、さよなら」

だが、すぐに香穂子は踵を返して柚木のもとへ戻ってきた。

「どうした?」

「忘れ物しちゃいました」

そう言うと香穂子は背伸びをすると柚木の唇に自分のそれを重ねた。

「!!」

香穂子はすぐに柚木から離れると『柚木先輩も頑張ってください』と言いながら去って行った。



「……頑張ってください…か。俺の身に起こっていることは何も知らないはずなのにな」

柚木は、風のように一瞬、触れていった香穂子の唇の感触を思い出すかのように指先で唇をなぞった。










柚木の前では何でもない振りができたと思う。

受験や何やかで忙しい柚木にこれ以上、不安な想いをさせるわけにはいかないから黙っていたが、それでもいつかはわかってしまう。

後でわかるよりも、最初に言ってしまった方が良かったかもしれない。

(でも……)





香穂子は練習室の前で深呼吸をひとつするとドアをノックした。

カチャリと音を立ててドアが開く。

「遅かったな。すぐに始めよう」

「…う、うん」

香穂子が躊躇っていると、手首を掴まれて練習室の中に引っ張り込まれてしまった。

「月森くん!」

月森はすでに準備をしていたらしく、グランドピアノの上にはヴァイオリンと楽譜が載っていた。

「こちらで曲は決めさせてもらった。今日中に合わせられるようにしたい」

「…うん」

月森は、いまだ躊躇している香穂子に楽譜を手渡すとヴァイオリンを構えた。

「質問があれば何でも聞いてくれ」

香穂子は渡された楽譜を見て驚いた。

これを後1か月足らずで弾きこなすことなんて至難の業だ。

「あ、あの……月森くん、わたし……やっぱり…」

ヴァイオリンを構えたまま、月森は視線だけ香穂子に寄こした。

「君は俺の条件を呑んだ。今更、なかったことにしてほしいというのは聞かない」

「……わかってる。わかってるけど……無理だよ。わたしにこの曲は」

「無理ではない。君になら弾けると思ったから選んだんだ」

月森はそう言うと『バッハ 2本のヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調』を弾き始めた。
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