オリジナル
□Cruel moon〜4〜
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「・・・お兄ちゃん、入ってもいい?」
凛子は躊躇いがちにドアをノックした。
返事がないので、もう一度、繰り返した。
「あのね・・・怒ってる?」
すると、ようやく返事が聞こえてきた。
「怒ってないよ」
「本当に?」
「ああ」
樹が嘘をついているとは思わないが、先程の不自然な態度が気になった。
「えっと・・・入ってもいい?」
先程と同じ問いを繰り返す。
だが、樹はそれを拒絶した。
「悪いけど、頭痛がするんだ。だから、少し休みたいんだよ」
「大丈夫!?」
様子がおかしかったのは調子が悪かったせいなのか?
凛子は心配になり、思わずドアを開けてしまった。
机に向かっていた樹が驚いたように振り返った。
「凛子!」
「お兄ちゃん、頭痛いのに寝てなくていいの!?」
凛子は部屋の中に足を踏み入れると様子を伺おうとして樹の傍へと近寄った。
樹はうろたえた様子で立ち上がった。
「課題をやってから休むつもりだったんだよ」
だが、机の上には教科書どころか筆記用具さえも見当たらなかった。
さすがの凛子も樹が何かを隠していると感じた。
「お兄ちゃん、さっき怒ってないって言ってたけど・・・」
「言った。だいたい、俺が怒る理由なんてないだろ?」
「だって、あいつに負けちゃったから」
すると、やっと樹は笑みを見せた。
「そんなの・・・おまえが一生懸命、やったことはわかってるし。あ、そういえば、聞くの忘れてたけど、何番だったんだ?」
「2番」
樹は目を瞠った。
「すごいじゃないか!まさか、そんなに良かったなんて・・・あ、ってことは、あいつはトップだったのか?」
「・・・うん、そうなの」
樹は顎に手をかけて、ため息をついた。
「それじゃほんとに仕方がないな。それにしても、あいつ、本当にできるんだな」
凛子は、まるで総一郎のことを知っているかのような口の聞き方に首を傾げた。
(でも、お兄ちゃんがあいつのこと知るわけないし・・・)
不思議そうに樹を見ていると、樹は、スっと凛子から視線を外した。たった今まで見せていた笑みも同時に引っ込んでしまい、凛子は悲しくなった。
「おにいちゃん・・・」
なぜだかわからないが、自分が樹の頭痛の原因ではないか、と凛子は不安になった。
樹は以前と変わらず優しいが、何かが違う気がするのだ。
凛子を踏み込ませてくれない樹がどこか遠くへ行ってしまうような気がしてならない。
樹は俯き加減のまま、再び机に向かうと凛子に言った。
「ごめん、凛子」
何が、『ごめん』なのだろうか。
凛子は黙って背中を向けられてしまったことが悔しくて悲しくて、いきなり樹の背中に抱きついた。
「ごめんなんて言われたって、ちっともわかんないよ!なんで、前みたいになんでも話してくれないの!?おにいちゃん、最近、変だよ!」
「凛子・・・離れてくれ」
樹は困惑した様子で首にしがみついた凛子の腕を引き離そうとした。
「イヤ!なんで、『よくやった』って褒めてもくれないの!?そりゃ、あいつに負けちゃったけど、頑張ったんだよ?前だったら、頭、撫でてくれたじゃない。なのに、どうして・・・」
まるで駄々っ子のようだ、と凛子は叫びながら思った。樹が困っているのが背中から伝わってくる。けれど、線を引かれたままにされるのは、どうしても嫌だった。
「頭が痛いなんて、嘘でしょ?なんで、わたしを避けるの?」
「・・・凛子・・・」
その時、ようやく凛子の手を掴んでいる樹の指が震えていることに気づいた。
「・・・人の気も知らないで・・・」
「え?」
樹の呟きは小さすぎて凛子の耳には届かなかった。
樹は凛子の手を強引に引き離すと立ち上がった。
「頭が痛いのは本当だ。だから出て行ってくれ」
凛子は目を見開いた。こんなに強く引き離されたのは初めてだった。
今まで一度だって拒否されたことはなかったのに。
「頭を撫でてくれって?もう、子供じゃないだろ。いい加減にしろよ」
樹のものとは思えない冷たい言葉に凛子は何も言い返すことができず立ち尽くした。
(そりゃ、ちょっと我侭、言いすぎたかもって思ったけど・・・)
凛子は目を何度も瞬かせた。そうでもしないと、涙が零れそうだったからだ。
樹は凛子の顔を見るのも嫌なのか、怖い顔で宙を睨んでいる。
凛子は、グイっと手の甲で目元を強く擦った。
「わかった。ごめんね、いつまでも子供で。も、もう、おにいちゃんのこと頼らないようにするから・・・」
それだけやっとのことで告げると凛子は急いで部屋を出た。
部屋を出て自分の部屋に飛び込むと押さえ込んでいた涙が溢れだした。
今まで、どれほど我侭を言って樹を困らせても怒らせるようなことはなかったというのに。
それとも、今まで我慢してきたものが、ここへきて一気に爆発してしまったのだろうか。
凛子はベッドへ寝転ぶと泣きながら眠りについた。
「樹、悪いけど、ちょっと凛子の様子、見に行ってくれない?」
母は夕食にも降りてこない凛子を心配してようだった。
原因を知っている樹は罪悪感に苛まれている最中だった。
(どうして、あんなこと言ってしまったのか・・・)
「・・・凛子、何て?」
「ただ食べたくないって言うだけなのよね。熱はないようなんだけど・・・彩葉、また、お姉ちゃんにきついこと言ったんじゃないでしょうね?」
母はソファーに寝転んでテレビを見ていた彩葉に話しかけた。
「知らないわよ。帰ってきてから一度も、顔、見てないし」
素っ気なく言い返した彩葉は、ふと思いついたように言った。
「彼氏とケンカでもしたんじゃないの?」
ぴくりと樹の眉が動いたが、誰も気づかなかった。
「あら?あの子に彼氏なんかいるの?」
「知らない。でも、あの人、もてるもん。つきあってたっておかしくないでしょ?」
「また、あんたは、お姉ちゃんのこと、あの人だなんて・・・」
母は困ったように彩葉を窘めた。
彩葉は知らん顔で視線をテレビに戻してしまった。
樹は重い腰をようやく上げた。
「母さん、俺、見てくるよ」
「そう?お願いね」
樹は頷くとリビングを出て階段を上がった。
まるで足が鉛になったかのように重い。
傷つけてしまった。何よりも大切な妹を。
樹は凛子の部屋の前に来ると呼びかけた。
「凛子?母さんが、心配してるから顔、見せた方がいい」
だが、返事はない。
ドアをノックしてみるが、それでも返事がないので樹は部屋の中に入ってみることにした。
部屋は真っ暗だったが、カーテンが引かれてないので窓から入り込む月の明かりで凛子のいる位置は見て取れた。
樹は息を押し殺すようにしてベッドに近づくとうつ伏せになって顔だけ横に向いて眠っている凛子を見つめた。
恐らく、あれから泣きながら眠ってしまったのだろう。
凛子は、泣くまいとしていたが樹は気づいていた。
去り際に凛子の頬に涙が伝っていたのを。
起きる気配のかけらもない凛子をしばらく見つめていた樹はベッドの上に手をつくともう片方の手で凛子の髪を撫でた。
昔と変わらず、しなやかな絹糸のような髪が指の間を、さらさらとすり抜けていく。
樹は髪の一房を顔の傍に近づけると、その香りをかいだ。
シャンプーだけの香りではない凛子自身の香りに眩暈がする。
髪から手を放すと今度はその手を細い肩へと伸ばした。
一瞬、触れるのを躊躇った樹は耐えるように目を閉じると震える掌で、そっと肩に触れた。
丸味を帯びた肩は樹の掌にすっぽりと納まるほどに小さかった。
少し力を込めれば壊れてしまいそうなほどに。
凛子の背中に覆いかぶさるように、樹は体を近づけていった。
甘い香りが近づくにつれて強く鼻孔を刺激し、理性を失わさせる。
まるで、蝶を誘う花のようだ。
樹は細心の注意を払って凛子の体の両脇に手をついた。
凛子は、何も知らずに眠っている。
樹は、スっと目を細めると彼女の頬に唇を寄せた。
瞬間、ギシッとベッドのスプリングが軋んだため、凛子が身動ぎした。
慌てて、樹は顔を離すとベッドから降りた。
心臓が破れるのではないかと思うほど鼓動が速い。
樹は自分がしようとしていたことの恐ろしさに愕然とした。
急いで凛子の部屋を出ると荒い呼吸を整えようと深呼吸を繰り返した。
(なにしてるんだ、俺は!)
凛子の部屋のドアにもたれ掛かり目を閉じていた樹は、不意に人の気配を感じて、ぎくりと身を強張らせた。