オリジナル
□Cruel moon1
2ページ/2ページ
家に帰ると、まだ兄も妹も帰っていなかった。
凛子は母に訊ねた。
「最近、彩葉の様子、おかしくない?」
「そうかしら?別に変わらないように思えるけれど」
「・・・そう。それならいいんだけど。もしかして、わたしにだけかな?」
このところの、彩葉の自分に対する態度のきつさに少々、気が重い。
「あら?考え過ぎよ。まあ、あの子も反抗期かしらね?」
母は日中、仕事をしているので彩葉と顔を合わせる機会も少ない。
だから気づかないのだろうか?
気のせいかもしれないが・・・言葉の端々に敵意のようなものさえ感じるのだ。
兄も気にするなと言う。一時のことだろう、と。
(でも・・・ちょっとつらいよ)
凛子は母に気づかれないよう、そっとため息をついた。
母は仕事へと出かけていった。母も父の事業の手伝いをしているので、忙しい身だ。だが、今日は凛子の高校の入学式ということで、無理に時間を作ってくれたのだ。
母は娘の入学式だから、あたりまえだと笑っていたが、実は、昨日の夜まで行けるかどうかさえわからなかった。
家には凛子、ひとりだけになった。
夕食になっても、彩葉も樹も帰ってこなかった。
仕方がないので、ひとりで夕食を済ませ、シャワーを浴びるために浴室へ足を運んだ。
「ただいま」
樹はリビングのドアを開けた。
だが、誰もいなかった。
灯りがついているのだから誰かしら家にはいるのだろうけれど。
(上かな?)
樹はテーブルの上にバッグを置こうとして、メモに気がついた。
『お兄ちゃん、彩葉へ
夕飯のおかずは冷蔵庫に入ってるのでレンジで温めてから食べてね』
メモを読む樹の目が優しげに細められた。
こんなメモが置いてあるということは、もう寝てしまったのだろうか?
入学式の話を聞きたいと思っていたが、さすがの凛子も慣れない環境に疲れてしまったのだろうか?
「それにしても・・・彩葉はまだ帰ってないのか?」
もう9時を過ぎている。中学生が遊んでいい時間ではない。
樹は、あと少したっても帰って来ないようだったら携帯にかけてみようかと考えた。
だが、最近の彩葉は携帯にかけても出ないことが、ほとんどだ。
(いったい、何がそんなに気に入らないのか・・・)
樹はため息をつくとメモをテーブルの上に戻してリビングを出た。
食事よりも先にシャワーを浴びたかった。
まだ大学も講義は始まっていない。履修科目の登録が終わるまでは、結構、暇なのだ。
だが、樹はすでにバイトを始めていた。
家庭教師を2つほど。
やはり短時間で多く稼ぐには、家庭教師が手っ取り早かった。
今日も家庭教師のバイトを終えてから帰宅したのだった。
明日も家庭教師のバイトが入っていた。
(早く資金を稼がないとな・・・)
樹には何がなんでも早く金を稼がねばならない理由があった。
樹は洗面室のドアを開けようとドアノブに手をかけたが、中から聴こえてくるシャワーの音に息を呑んで足を止めた。
(ここにいたのか・・・)
樹は引き返そうと身を翻した。だが、シャワーの音が止んで、カチャリと浴室のドアが開いたため動けなくなった。
心臓の音に体中が支配されてしまったような気がした。
ドア一枚隔てたところに凛子がいる。
樹は、凛子にその音を聴かれてはいまいか、と不安になった。
だが、立ち去ることもできず、樹は息を殺していた。
意識が耳だけに集中している。
衣擦れの音は樹に様々な物を想像させる。
きっと、今は柔らかなバスタオルに躰を包んでいるところだろう。
濡れた髪から滴り落ちる水滴が剥きだしの肩に落ちて・・・筋となって胸元へと落ちていく。
そんなことを想像して、樹は口元を抑えた。
(何を考えている!!)
樹は足早にそこから立ち去った。
階段を駆け上がり、急いで自室へと逃げ込んだ。
そしてベッドへ倒れこんだ。
「凛子は、俺の妹だ。忘れるな」
樹は自分自身にそう言い聞かせると右手で両目を覆った。
凛子は頭の上にタオルをのせたまま、リビングへと戻った。
「あれ?お兄ちゃん、帰ってきたのかな?」
テーブルの上に樹のバッグが置いてある。
だが、冷蔵庫を開けてみると、おかずは入ったままで手をつけていなかった。
凛子は冷蔵庫から、おかずを取り出すとレンジで温めなおしてから、トレーに載せて2階の樹の部屋へと運んでいった。
「お兄ちゃん、入ってもいい?」
樹はベッドから飛び起きて、ひとつ深呼吸をするとドアを開けた。
凛子はパジャマ姿で、まだ濡れたままの髪にタオルがのっていた。
「お帰り、お兄ちゃん。いつ帰ってきたの?夕飯、まだでしょ。はい」
樹は動揺を隠し、凛子に言った。
「ただいま。ありがとう、凛子。でも、夕飯はいいよ。実は、済ませてきたんだ」
「そうなの?」
凛子は少し驚いたようだった。
いつもだったら、食事がいらない時は必ず、連絡をくれるからだ。
「ごめんな。ちょっと連絡する暇なくて。せっかく用意してくれたのに悪いな」
「ううん、いいよ」
凛子は、そう言ったが、食事を運んできたのは口実で、何か話したがっている様子だった。
樹は笑顔を作ると凛子の頭を撫でた。
「話なら、ちゃんと聞いてやるから」
「なんで、話があるってわかったの?」
凛子は目を瞬かせた。
10年以上、ずっと見続けてきた顔だ。凛子のちょっとした表情の変化を樹は見逃すことはない。
「・・・それより、先に髪を乾かしておいで。そうじゃないと話は聞かないよ」
「は〜い」
凛子は、ぺろっと舌を出すと急いで階段を下りていった。
樹は額に手をやってかぶりを振った。
「・・・最悪。よりによって、あんな無神経男と同じクラスになっちゃっうなんて!」
凛子は樹に今日の出来事を話していた。
樹は苦笑しながら凛子の話を聞いてやっていたのだが、ふと真顔になった。
「それにしても珍しいね。おまえが、そこまで初対面の人間に対して毛嫌いするなんて」
「そう?あ・・・やっぱり気分悪いかな。ごめんなさい」
凛子は兄に、やんわりと窘められたのかと思い口に手をあてた。
「別に謝ることない。ただ、ちょっと気になっただけだから」
凛子は小さい頃から、我を張るということがない聞き分けのいい子供だった。
誰とでも仲良くできたし、人から嫌われることも、嫌うこともなかったように樹は記憶していた。
ここまであからさまに人の悪口を言う凛子を初めて見たので驚いた。
だから、ついつい勘ぐってしまう。
・・・その『門倉総一郎』という少年は凛子に強烈な印象を与えたということか・・・
凛子と付き合いたいと告白してくる男子が何人かいたことを樹は知っていた。
だが、凛子は、なぜか誰とも付き合おうとしなかった。凛子は、冗談めかして『お兄ちゃんみたいな人、なかなかいないから』と笑っていたが、それを信じるほど、おめでたい人間ではない。
凛子の周囲に彼女の心を揺り動かすほどの人間がいなかっただけだ。
今は凛子に最も近いのは、自分だろう。けれど、いつなんどき、その座を樹が知らない他の誰かに奪われるかわからない。
もしかしたら、その門倉とかいう男かもしれない。
「お兄ちゃん?どうかした?」
「え?ああ、ごめん。とにかく、彼がどんな人間だろうと、おまえが嫌なら、できるだけ近づかないようにすればいいんじゃないか?」
「それがね・・・席がすぐ近くなんだよ。ほんと、ついてないったらありゃしない〜」
凛子は、パタっとベッドの上に顔を埋めた。
白い項に目を奪われそうになって、樹は視線を逸らした。
「ほら、明日も学校なんだから、もう寝ろよ」
これ以上、凛子と同じ部屋で息をするのは、つらい。
樹は急き立てるように凛子に言った。
「う〜自分の部屋まで行くの面倒くさい。ここで寝ちゃだめ?」
布団に顔を埋めているため、くぐもった声で凛子が言った。少し甘えるような口調が樹の鼓動を速めさせる。
「何、言ってるんだ。そしたら、俺はどこで寝たらいいんだ?」
「一緒に寝ようよ。ちょっと前までは、一緒に寝てくれたじゃない」
凛子は、一旦、起き上がると徐に布団を被って横になってしまった。
背中を向けて横たわっている凛子の躰のラインは、なだらかな大小の山が連なっているようだ。
触れれば、その山々が、どう変化するのか・・・・・・。
危うく想像しそうになって、樹は、激しくかぶりを振った。そして、気づいた時には、声を荒げていた。
「いい加減にしろ!」
「ご、ごめんね・・・お兄ちゃん」
驚いた凛子は、パっと起き上がるとベッドの上から飛びのいた。
樹は目を瞠った。
自分自身に驚いていた。
今まで、凛子に怒鳴ったことなど一度もなかったのに。
「・・・すまない。少し疲れてるんだ。もう、寝るから出て行ってくれないか?」
「う・・・うん」
凛子はドアを開けると振り返った。
「おやすみなさい、お兄ちゃん」
「・・・・・・おやすみ、凛子」
「・・・うん」
樹は疲れたようにベッドに身を投げ出した。
「・・・この先、どうしたらいいんだ?」
部屋に戻った凛子は、カーテンを閉めようとして気づいた。
「今日の月・・・なんだか怖い。青すぎて・・・」
凛子は、シャっと、音をたててカーテンを引くとベッドにもぐりこんだ。