金色のコルダ

□たいせつなもの1
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柚木は、いつもと変わらぬ微笑を浮かべ、香穂子に言った。


だが、香穂子は、すでに、その微笑が周囲を欺くものだと知っている。


香穂子は、黙って柚木の傍を通り過ぎようとした。


瞬間、柚木に腕を掴まれた。


「俺を無視するなんて、百年、早いんだよ」


柚木は、香穂子以外には聴こえないような小声で言った。


「放してくださいっ!」


香穂子が腕を振ると、あっけなく柚木は手を放した。


「僕は、君に何かしたかな?」


そう、柚木は悲しげに顔を曇らせた。


周囲の生徒たちから、非難の声があがる。


「柚木先輩っ!」


「ごめんね。きっと、僕が気づかないうちに、君を怒らせてしまったんだね」


香穂子は柚木を睨みつけた。


柚木は、悲しげな表情のまま、口の端をわずかに吊り上げた。


香穂子にだけ、わかるように、唇だけ動かす。


おまえが、何を言っても、無駄だと。


「柚木先輩、何か用ですか?」


香穂子は、悔しさを滲ませながら柚木に言った。


柚木は、天使が微笑むかのごとくの優しげな表情のまま、香穂子に言った。


「君と話したしたくてね。車に乗ってくれないかな?」


香穂子は、激しくかぶりを振った。


「いやです!」


「そんなこと言わないでほしいな。さあ、日野さん?」


柚木が香穂子に手を差し出す。


香穂子は手をとるつもりはなかった。


女生徒の誰かが、あからさまに香穂子を非難した。


「せっかく柚木さまが、ああ、おっしゃってるのに、

あの子ったら、どういうつもりかしら!」


「ほら、まわりの目が、これ以上、厳しくならないうちに

言うとおりにした方がいいんじゃないか?」


柚木の目は、『しょせん、俺にはかなわないだろ?』とでも言っているかのようだった。


(悔しい。みんな、騙されてるんだってこと、言ってしまいたい)


柚木は、強引に香穂子の手首を掴むと車内に引き込んだ。


そうして、自分も乗り込むと運転手に車をだすように告げた。


「後ろのことは、気にしなくていいから」


柚木は車が走り出すと、香穂子だけが知っている酷薄そうな笑みを浮かべた。


「ひどいっ!」


「何が?」


「無理やり、車に乗せたりして!」


「ああ、そんなことか」


柚木は足を組み、顎に手をかけて微笑した。


「おまえが、とろいからだろ?

それより、いい加減、自分の技量のなさを思い知ったんじゃないかと思ってね」


「わたし、辞退しませんから」


「おまえも強情だね。それより、気づかないのか?おまえの音、前より、ひどくなってる」


香穂子は柚木に食ってかかった。


「そんなことありません!だって、毎日、何時間も練習してるんです。

そんなこと言って、わたしを混乱させるつもりですか!?」


柚木は大きなため息をついた。


「やれやれ。どこの誰だったかな。俺に、大きな口を叩いたのは。

今のままだったら、リリは後悔するだろうな。おまえを選んだことを」


香穂子は、これ以上、聞いていたくなくて、車から降りようとした。


「無駄だぜ。ロックしてあるから、運転席以外からは、開けられないようになってる」


香穂子は、運転手に言った。


「下ろしてくださいっ」


「この子のいうことは、聞かなくていいから」


「ですが・・・・」


「いいから、構わないでくれ」


「はい」


運転手は、それ以上、何も言わなかった。


香穂子は、諦めた。


だが、もう柚木が何を言っても耳を貸すつもりはなかった。




「・・・・と、どこまで話したかな?そうそう、リリのことだ。

あいつは、ずっと探していた。音楽科も普通科も関係なく、

ただ音楽というものを楽しんでくれる人間を」


柚木の言葉に香穂子は、思わず目を見開いた。


「ただ、競い合うだけじゃなく、音楽が、どんなに素晴らしいものかを、

たくさんの人間にわかってもらいたいと言ってたんだ、リリは」


「リリ・・・・が?」


香穂子は、陽気でお調子者のリリのことを思い浮かべた。


(そういえば、初めてリリと会って、

コンクールに出るように言われた時、そんなこと言ってたかも・・・・)


柚木は、香穂子から目を逸らし、睫を伏せると独り言を言うように呟いた。


「リリが心配していた。おまえは、ヴァイオリンを嫌いになってしまったのかと」


香穂子は、ハッとした。


(ヴァイオリンが嫌いになった?ううん、そんなことない!でも・・・・・・)


香穂子は、黙って考え込んでしまった。


そんな香穂子を柚木は、じっとみつめていた。






数時間前、柚木は、しょんぼりしているリリに会った。


「おや、リリじゃないか?いつもの君らしくない暗い顔だね。いったい、どうしたのかな?」


「なんだ。おまえか」


リリは、ふ〜っと重いため息をついた。


「本当に、どうしたの?何か、コンクールに問題でもあるのかな?」


あてずっぽうに、そう言ってみると、リリは、ぱっと顔を上げて叫んだ。


「そうなのだ!大問題なのだ!」


柚木は首を傾げた。


「僕でよければ聞くよ。話してみない?」


リリは、再び、しょんぼりと俯いた。


「このままでは、あいつはダメになってしまうのだ」


「あいつって?」


「日野なのだ。日野香穂子が、おかしいのだ!」


「・・・・・日野・・・さんが?」


柚木も、実は、最近の香穂子の演奏の変化に気づいていた。


香穂子の今のヴァイオリンは、柚木の心に何も訴えかけない。


以前は、香穂子の音色を聴くと、妙に心がざわつき、イライラしたものだった。

それが、今は、まったくといっていいほど耳に残らない。

香穂子の音は、ただの音の羅列に過ぎない。


「いつもの日野香穂子の音楽が聴きたいのだ!ピカピカで、

ふわふわで、キューンとなる、あのヴァイオリンが聴きたいのだ!」


リリは、まくし立てるように言うと、再び肩を落とした。


「なあ、柚木。おまえは、日野香穂子に何があったか知らないか?」


思い当たることはなくもなかったが、柚木は知らないと答えた。


「そうか・・・・・・せっかく、ヴァイオリンもうまく

なってきたというのに。まったく、どうすればいいのだ・・・」


リリは、力なく姿を消した。


ひとり残された柚木は、思案顔で呟いた。


「・・・・・・確かに、今のあいつは、いじめがいがないよな」






気づくと、車は香穂子の家の前で止まっていた。


「日野、着いたぞ」


「あ、あれ?」


香穂子は、柚木の存在も忘れ考え込んでいたのだった。


柚木も、あれから何も言わなかった。


運転手がドアを開けてくれたので、香穂子は礼を言った。


香穂子は車から降りると、柚木に言った。


「一応、送っていただいて、ありがとうございました」


「ああ」


香穂子は、くるっと踵を返すと、振り返ることもなく玄関の中へと消えていった。






車が再び、動き出すと柚木は自嘲気味に笑った。


「余計なこと、したかもな」


「何か?」


「いや、なんでもない」


柚木は窓の外に視線を走らせた。


(お祖母さまに、咎められるだろうな。今まで、どこで、何をしてたのかって・・・・・)






約束の土曜日、香穂子は飛び起きた。


「寝坊したっ!今、何時だろう?」


ここ2,3日、ずっといろいろ考えていて、なかなか眠れなかったのだ。


「もう、9時半!?遅れちゃうっ!」






香穂子は、約束の場所に走った。


すでに10分も過ぎている。


(まずいなぁ。月森くんて、遅刻とか、許さなそうだし)


前方に、月森の姿を認めると、香穂子は全速力で走った。


「月森くーん!」


月森は、走ってくる香穂子をみつけると、微笑んだ。


「よかった。もしかして、来てくれないのかと思ってたから」


「ごめんっ!つい寝坊しちゃって」


香穂子は何度も、謝った。


「そんなに謝らなくてもいい。それより、どこへ行こうか?」


意外なことに、月森は怒ってはいなかった。


香穂子は、少し安心すると、言った。


「う〜ん・・・・・月森くんは、どこに行きたいの?」


「俺は・・・・・・」


月森は、特にどこへ行こうとも考えてはいなかった。

今日、香穂子を誘ったのは、香穂子に気分転換が必要だと思ったからだった。


「君の行きたいところで構わない」


「そう言われても・・・・う〜ん」


香穂子は、月森が行きたいところがあると思っていたのだ。


しばらく、ふたりして、考え込んでいた。


月森の日常は、ヴァイオリンを中心にまわっている。

いざ、遊べとか、好きにしていいとか言われても、困るのだ。


だが、誘ったのは月森だ。

ここで、途方に暮れていても仕方がない。

時間が惜しい。


月森は、陽の光の眩しさに、手をかざした。

青い空に白い雲。


すでに、初夏の兆しさえ感じる。


(しばらくぶりかもしれない。ゆっくり景色を見るのは)


ふと、月森は思いついたことを口にしてみた。




「海へ。海を見に・・・・・・行かないか?」


香穂子は、大きく頷いた。







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