金色のコルダ

□Prelude1
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6時のチャイムが鳴ると、香穂子は、ため息をついてヴァイオリンをしまいこんだ。

なぜ、月森は途中でいなくなってしまったのだろう?


(わたし、何か、月森くんの気に障るようなこと言ったのかな?)


香穂子が、とぼとぼと歩いていると、背後から声をかけられた。


「どうしたの、日野さん?」


柚木だった。


「あ、柚木先輩・・・・」


「校門の前で君を待っていたのに、ちっとも僕に気づいてくれなかったね」


「あ、すみません。何か、用でした?」


香穂子がそう言うと、柚木は顔を曇らせた。


「ひどいな。用がなければ、君を待っていてはいけないのかな?」


香穂子は慌てた。


「そんなことないです!ごめんなさいっ!そういう意味じゃないんです」


「わかっているよ。君はやっぱり、かわいいね」


柚木は、フフフっと笑った。


(どうして、この人は、さらっとそういう恥ずかしいセリフを言えるのかなあ)


香穂子は頬を染めて、柚木に言った。


「そういうこと言わないでください。また、柚木先輩のファンに睨まれちゃいますから」


「どうして?僕は君がかわいいと思うから、かわいいと言ったんだよ。

ところで・・・・・日野さん、さっき僕のあげた楽譜、弾いていた?」


「いいえ。やっぱり、わたしには、とてもじゃないけど弾けそうになくて。あれは、月森くんです」


「・・・・・そう、月森くんが・・・・ね」


香穂子は足を止めた。


「あの・・・・柚木先輩。これ、お返しします。

せっかく、いただいたのに悪いんですけど、やっぱりわたしには弾けそうになくて。

月森くんにも無理だって言われちゃったし」


香穂子は、頭を下げて謝った。


「ごめんなさい!」


すると、聞いたことのないほど低い声が聴こえた。


「おまえのヴァイオリンなら弾けるはずだろ?」


「え?」


香穂子は、耳を疑った。


(わたしのヴァイオリンならって・・・・もしかして、知ってる!?)


それに、とても柚木とは思えないその口調。


香穂子は、恐る恐る顔を上げた。


「柚木先輩?」


だが、目の前には、いつものように微笑をたたえた柚木がいた。


(やっぱり、聞き間違い・・・だよね?)


「残念だな。その曲、ぜひ、日野さんのヴァイオリンで聴きたかったのに。

とても美しい曲だと思わないかい?僕もぜひ、夢の中で悪魔に伝授してもらいたいな」


「でも・・・・怖くないですか?悪魔なんて・・・・」


香穂子が訊ねると、柚木は笑った。


「どうして?君は悪魔を見たことがある?

もしかしたら、悪魔は、僕たちと同じ人間の姿をしているかもしれない。

それに、悪魔より恐ろしいのは人間の方なんじゃないかな?」


香穂子は驚いた。


「柚木先輩がそんなこと考えるなんて、意外ですね。

だいたい、柚木先輩の夢には、悪魔じゃなくて、天使が現れるんじゃないですか?

柚木先輩に悪魔は似合わないと思います」


柚木は、足を止めた。


「ありがとう。そう思ってくれるなんて、嬉しいよ」


そう言いながらも、柚木の顔には暗い影が落ちていた。

だが、香穂子は気づかなかった。


「そうですよ!柚木先輩は優しいから。そうじゃなければ、フルートがあんな優しく響かないと思います」


「・・・・・・・・」


「今度のセレクションでは、何を弾くんですか?コンクールで、いろんな楽器の演奏が聴けるのは楽しいです。

自分も、いつか、みんなみたいに思い通りの音が出ればいいなって」


だが、柚木はそれには応えず、まったく別の話を始めた。


「ねぇ・・・・日野さん。タルティーニはね、

悪魔に素晴らしい曲を聴かせてもらう代わりに自分の魂を売り渡したんだよ」


「そうなんですか?」


「まあ、本当かどうかは、わからないけどね。

ところで、君は自分の魂と引き換えに素晴らしい音色を奏でる

ヴァイオリンをもらえるとしたら、どうする?」


香穂子は言った。


「そんな自分の魂と引き換えになんて・・・・絶対にお断りですよ」


柚木は頬にかかる長い髪を振り払った。


「・・・・・君は・・・そうだろうね。でもね、日野さん。

世の中には、才能と魂を引き換えにしてもいいと思う人間がたくさんいるってこと、知っている?

彼らは、それほど音楽に対して真剣なんだよ」


香穂子は、訊ねた。


柚木も、そうなのかと。


「さあね・・・・どう思う?」


「柚木先輩は、悪魔なんか必要ないじゃないですか。頭もいいし、フルートの才能も素晴らしいし」


瞬間、柚木は、香穂子から楽譜を奪い取った。


「痛っ!」


楽譜の端が香穂子の指を切ったのだ。

香穂子の右の人差し指から、血が滲んだ。


「柚木先輩?」


「悪いけど、車が迎えに来るのを忘れていたんだ。ごめんね、日野さん」


柚木は、香穂子の指に視線を向けたが、

何も言わずに踵を返して学院の方に戻っていってしまった。


香穂子は血の滲んだ指を口に含んだ。


「柚木先輩・・・・?」






「お待ちしておりました」


運転手が車のドアを開けた。


「悪いね。ちょっと用事があったものだから」


柚木は後部座席に体を沈めて、目を閉じると腕を組んだ。

車は静かに滑り出し、あっという間に香穂子を追い越した。


気分が悪い。

こうして目を閉じていないと、罪もない運転手に、怒りをぶつけてしまいそうだった。

柚木は目を開け、香穂子から奪い取った楽譜に視線を落とした。


目が痛くなるほどの細かい音符が並んでいる。

まさに、悪魔でもなければ、創ることが不可能な音楽。

いくら、魔法のヴァイオリンでも、技術がなければ指は動かない。


(バカな奴。俺が、なぜ、おまえにこの楽譜をやったのか、気づきもしない)


柚木は、楽譜を破り捨てた。


(魔法のヴァイオリンがなければ、おまえなど何の価値もない。

早く、今の自分が錯覚に過ぎないと気づかなければ、俺はおまえを壊すよ)


柚木は、香穂子がまったくの初心者だと知っていた。

リリが気まぐれに香穂子を選んだのだと。

どうせ、たいした曲は弾けるはずないと思っていた。

だから、大目に見てやろうと。

そのうち、自分からコンクールを辞退するに違いないと。


だが、柚木の予測は大きくはずれ、香穂子は、一位とまでいかずとも、それなりの評価を得てしまった。

このままでは、いけないと思った。

なんとかして、辞退するようにしなければ、と。


けれど、香穂子は柚木の意に反して、魔法のヴァイオリンを使って実力をつけてきていた。

少し優しくしてやっただけなのに、疑いもせず、自分を『優しい先輩』だと信じている。


我慢がならない。


あの、ひたむきな瞳で見つめられるのは気に入らない。


『柚木先輩には才能があるじゃないですか』


香穂子の言葉が脳裏に蘇る。


(いくら才能があっても、俺にはこの先、必要ないものだ)


柚木が2人の兄より秀でることは許されなかった。

昔も、そしてこの先、ずっと。

それを悔しいとも、もう思わなくなったが・・・・。




純粋に、ありったけの情熱を込めて演奏しても意味はない。

しかし、だんだんと、その気持ちが揺らいできている。

そう・・・・・日野香穂子のせいだ。

彼女のヴァイオリンを聴いていると心がざわめく。

それが、何かわからず、ますます、苛立ちを覚える。


こんな不安定な状態では、この先のコンクールに差し支えるだろう。

だから、柚木はこの楽譜を渡したのだった。

無理に、弾こうとすれば、指を痛めてしまうだろう、悪魔のような難曲。

そして、弾いているうちに己の不甲斐なさに気づくに違いないと。


「・・・・・失敗だったけどな」


柚木は、おかしそうに笑った。


「珍しいですね。そんな風に、笑うのは」


運転手が声をかけてきた。


柚木は言った。


「ああ・・・・・最近、いろいろ楽しくてね」


「それは、いいことですね」


「そうだね」


柚木は窓の外に視線を向けた。


(そろそろ、わからせてやらなければな)


柚木は、窓を開けると破った楽譜を捨てた。

楽譜は、すぐさま風に乗って見えなくなった。


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