金色のコルダ〜月森編〜
□月森編〜3〜
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柚木の姿は、どこにもなかった。
意外と広い星奏学院の敷地の中、人一人を探し出すのは大変だ。
柚木を見かけなかったか、と数人に訊いたのだが、見ていないという返事しか返ってこなかった。
その内に、香穂子が柚木を探し回っているという噂が柚木親衛隊に広がってしまったため、その追求をかわすにも苦労してしまった。
下校時刻まで、あと数分に迫っていた。
すでに校舎の内も外も、人影はまばらだった。
あれから、何度も携帯に電話とメールを繰り返したが、電源は切られたままで何の返事もなかった。
もしかして、もう家に帰ったのかもしれない……そう思ったが、さすがに家にまで押しかける勇気はなかった。
ついに下校時刻が過ぎてしまい、香穂子は重い足を引き摺るようにして正門へと向かった。
すでに日は西に傾いていた。
東の空には、一番星が輝いている。
(月森くん、心配してるだろうな……)
それにしても、まさか、ふたり共に選ばれるとは思っていなかった。
月森に比べれば、まだまだ未熟だと自分でもわかっている。
けれど、精一杯、力を出し切った結果、それが教師たちに認められたことが嬉しかった。
何よりも、香穂子が初めてヴァイオリンに出会った時から目標にしていた月森と同じステージに立てるということが誇らしかった。
そして………これで、柚木との約束も果たせるわけだ。
香穂子がコンサート出演権を得れば、これからも柚木は音楽を続けるという約束だった。
(柚木先輩………)
柚木が香穂子の前に姿を見せないのは、なぜだろう?
香穂子との約束を、結局のところ、柚木が守るつもりはなかったということか。
そんなはずはない………そう信じたかった。
『心配するな。約束は守ってやる』
今でも、あの時の柚木の言葉が耳に残っている。
柚木は、滅多に本音を見せないし、平気で嘘をつくが、音楽に関して嘘はつかない。
なぜなら、柚木はフルートを……音楽を心の底から愛しているはずだから。
香穂子は足を止めた。
やはり、今日中に柚木に会って話をしなければならない。
香穂子は、そう決意を固めると柚木の家へと向かった。
雅から香穂子の来訪を告げられた柚木は、一瞬、顔を強張らせた後、何かを断ち切るように畳の上に手をつき、すっくと立ち上がった。
「わかったよ。ここに通してくれるかな」
「……わかったわ、すぐお通しするわね」
聡い雅のことだ。普段とは違う兄の微妙な変化に気づいているのだろう。
雅が部屋から出て行くと、彼にしては珍しくため息をついた。
香穂子が何のために、ここまで来たのか、わかっている。
約束通り、ソロコンサートに出ることが出来たのだから、自分に音楽を続けさせたいという彼女の強い想いに応えるべきなのだろう。
香穂子は、到底、無理だと思えた難関を突破したのだ。
もちろん、彼女ひとりではなく、月森も……なのだから、それを理由にして約束を反古にしてしまっても良かった。
彼女は、『月森に勝ってコンサートへ出てみせる』と言っていたのだから。
廊下を歩く、この家の者ではない足音が近づいてくると、柚木は窓際に立ち、障子を開けた。
ここから見る庭が好きだった。
見ていると落ち着く。
けれど、今日は何を見ても一日中、心がザワザワと波立っていた。
そして、それは香穂子の演奏を聴いた瞬間に津波となって押し寄せた。
まさか、彼女がその曲を選ぶとは思っていなかっただけに、柚木の衝撃は大きかった。
(俺は……おまえを目の前にして冷静に話をすることができるのか?)
決心がつかないうちに、襖の開く音がした。
「柚木先輩……わたし……選ばれました。だから、音楽を……フルートを続けてくれますよね?」
開口一番、香穂子はそう切り出してきた。
他にするべき話など存在しないと思っているかのようだ。
柚木は振り向かなかった。
「………ひとつ聞くけど、おまえのメリットはなんだ?」
「え?」
「俺が音楽を続けようが続けまいが、おまえには何の関係もないはずだ」
「そんな………わたしは、ただ柚木先輩の吹くフルートが好きだから、やめてほしくないって………」
この約束をした時、香穂子は『先輩が好きだから』と確かに言った。
(だが、今は違う)
柚木は振り返った。
「でも、俺のフルート以上に好きなものが、今のおまえにはあるだろう?」
柚木は、今、自分がどんな顔をしているのか、わかっている。
こんな顔、誰にも見せたことはない。
香穂子は、目を見開いた後、睫毛を伏せると小さく頷いた。
「………おまえは欲張りだな」
弾かれたように、香穂子が顔を上げた。
「1度にふたつのものを得ようだなんて、ムシが良すぎるとは思わないか?」
「そんな……わたしは、ただ、先輩にフルートを………」
「俺が、おまえのために音楽を続ける義務はない。そうだろう?」
柚木は香穂子の言葉を途中で遮った。
「……はい」
香穂子はそれ以上、何も言えずに黙ってしまった。
自分も香穂子も肝心なことに触れていない。
このままでは平行線だ。
月森を好きだと言いながら、揺れている彼女。
ここで抱きしめて帰さなければ、もしかしたら、また………。
(そんなことをしても、これからまた何度も同じことを繰り返すだけだ)
柚木は、自分の方から糸を断ち切ろうと思った。
どうせ、すでにボロボロになっているのだから、少し力を込めれば、簡単に切れるはずだ。
だが、愛する女を、ボロボロにするわけにはいかない。
柚木は心を決めた。
「…………香穂子」
「……はい」
「俺はフルートはやめない」
「柚木先輩」
「だが、それは、おまえのためじゃない。俺自身が、音楽まで捨ててしまったら生きていけないからだ」
「!!」
みるみるうちに、香穂子の顔が青ざめていく。
月森を選んだのに、言い出せない彼女の代わりに柚木は言ってやった。
「もう、俺はおまえを追わない。彼に安心していい、と言ってやれ」
「柚木……先輩………」
香穂子の瞳に涙が浮かんだ。
柚木は、その涙を見ないように再び、彼女に背を向けた。
その涙は誰のための涙なのか、と訊ねてしまいそうになる自分を必死で抑えて柚木は告げた。
「……話は終わった………彼のところへ行くんだろう。早く帰れ」
しばらくの間、香穂子は去ろうとしなかった。
だが、これ以上、ここにいても柚木は、もう振り返ってはくれないと気づいた香穂子は、小さな声で『さようなら』と言うと帰っていった。
完全に襖が閉められるのを確認すると、柚木は詰めていた息を大きく吐き出した。
「………終わった…な」
いつの間にか、月は中天にさしかかっていた。
こんな情けない自分の姿を月に見られていたとは。
柚木が、ピシャリと障子を閉めると、いつの間に入ってきていたのか、心配そうに雅がこちらを見ていた。
「お兄さま………あの方、帰してしまって本当に良かったの?」
「………いいんだよ。おまえが気に病むことじゃない」
「でも………お兄さま、泣きそうな顔してるから……」
柚木は、咄嗟に微笑みを顔に上らせると首を左右にゆっくりと振った。
「そんなことはないよ………でも、そうだね……少しの間、ひとりきりにしてくれないかな」
「…わかったわ」
雅が出て行くと柚木は花を活けている途中だったことを思いだした。
だが、ほんの少し目を離していただけだったのに、花は精気を失ってしまっていた。