金色のコルダ〜柚木編〜

□柚木編〜7〜
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メールを打っても返信がない。

(どうしちゃったのかな?)

余程、電話をかけてみようかと思ったが、もしかしたら勉強に集中していてメールに気づかないのかもしれない…だったら邪魔をしてはいけない。

だが、柚木が返信してこないことなど、今まで1度だってなかった。

柚木のメール文は、普段、香穂子とする会話よりも余程、丁寧で優しく、そして他人行儀だ。

初めは、普段とのギャップに戸惑っていたが、最近は他人に見られた場合の彼なりの防衛策なのだろうと解釈するようになった。

それに、どんなに文章を装っても、その中に含まれる柚木の優しさや愛情は嘘ではないことがわかる。



香穂子は枕の傍らに、いつになっても鳴らない携帯を忍ばせると目を閉じた。



眠りにつき、目が醒めたら明日になる。



(明日になったら、柚木先輩に会える)



香穂子は呪文のように心の中で繰り返す。

明日になって、柚木に会えば、くだらない不安は消えるはずだ。

いつのまにか眠ってしまった香穂子の口元には微笑みが浮かんでいた。








次の日、いつもと同じ時間に車で迎えに来た柚木はいつもとまったく変わらないように見え、香穂子をほっとさせた。



後部座席の柚木の隣に座った香穂子は躊躇いがちに訊ねた。

「あの…昨夜は勉強、忙しかったんですか?」

「なぜ?」

柚木は首を傾げたが、すぐにメールのことだと気づいたようだ。

「ああ……昨夜はすまなかったね。少し、家の中がバタバタしていて……でも、とても嬉しかったよ」

嬉しかったと柚木の口から聞けただけで十分だった。

「あ、ありがとうございます。ほんのちょっとですけど、心配になっちゃって…具合が悪いのかなぁとか、別れてすぐメールしちゃって、しつこいって思われちゃったかなぁ……なんて」

『あはは』と照れ隠しのように笑うと、柚木は切なそうに香穂子を見つめた。

「香穂子……」

「はい?」

柚木の手が香穂子の頬に伸ばされる。

だが、触れる寸前で柚木は手を引っ込めてしまった。

(え?)

「あ、あの…柚木先輩、やっぱりどこか具合が悪いんじゃ……」

そういえば、まだ今日は一度も触れてこない。

朝、車に乗り込むと挨拶のように唇を寄せてくる柚木なのに。

「なんでもない。おまえが心配することじゃないよ。さあ、もうすぐ学校に着く。準備をしておけ」

「はい……」

身支度を整え、降りる準備を始めた柚木を香穂子は見つめた。

(柚木先輩?)








柚木の様子が少しおかしいことを気にしながらも、香穂子は最近、再び現れるようになったリリから、今度の文化祭でコンサートを行ってほしいと頼まれたため、まずは金澤に相談することにした。

本当なら真っ先に柚木に話し、協力を求めたいところではあったが、彼からは『フルートを続ける』とはっきりと聞いていない上、やはり受験生を煩わせてはいけないと思ったのだ。

それにコンサートをやるといっても、香穂子ひとりでは無理だ。協力してくれる人たちがいなければ何も始めることはできない。

金澤に相談すると、とりあえずは学内コンクールの参加者に声をかけてみろと言われた。

(…って言われてもなぁ)

学内コンクール参加者は、香穂子同様、ソロコンサートに出演するものがほとんどだ。

その上、コンサートの練習までしなければならないということになれば負担がかかりすぎる。

(それに……)

香穂子は、そっと後ろを振り返った。

幸い、月森は香穂子が見ていることに気づいていないようだ。熱心にプリントのようなものを読んでいる。

香穂子は月森が怖かった。

今まで、正面から感情をぶつけてくるようなことは1度としてなかった彼があんな行動に出るなんて思いもよらなかった。

コンサートに月森が協力してくれるかどうかは、わからないが、もし協力してくれることになった場合、いやでも一緒にいる時間が増える。

もし、またあんなようなことがあったらと怯えながら一緒に練習などできるのだろうか。

(月森くん……)

だが、月森にそういう行動をとらせたのは香穂子の所為だ。

自分がいつまでも、はっきりしない態度をとってきたから悪いのだ。



自分の気持ちがどこにあるのか、わからなくて…月森を傷つけ続けた自分がいけない。

自分のことを想ってくれる月森を一番に愛することができればよかった。

だが、今の自分のすべては柚木のことでいっぱいで他の誰のことも考える余地はなかった。

ヴァイオリンと柚木のどちらかを選べと聞かれたら、迷いなく柚木を選ぶだろう。

もちろん、ヴァイオリンは大好きだ。一生、弾いていけたら、どんなにいいだろうと思う。

だが、それは月森のように留学して音楽の道を究めたいと思うようなものではない。

どんな形でもいいのだ。ヴァイオリンさえ弾ける場所なら、どこでもいい。

そして、できることなら愛する人の傍らでヴァイオリンを奏で続けたい。



そういう自分の気持ちをうまく月森に伝えることができればいいのだが……理解してもらうのは簡単なことではないだろう。

(それでも、理解してもらいたい……)

どんなに時間がかかっても、月森と自分の進むべき道は違うのだ、と、わかってもらえるように努力しなければならない。

近づくのが怖いと逃げていては何も始まらない。



香穂子は意を決して立ち上がると月森の机の前に歩いて行った。



「あの…月森くん、話があるの」

月森は顔を上げた。

月森が熱心に読んでいたものは、どうやら留学に関する手続きの書面らしかった。

(留学するっていうのは、本当なんだ……)

月森は香穂子の視線がそれに向けられていることに気づいたようだった。

「…話というのは昨日のことだろうか?」

「…ううん……そうじゃなくて。あ、あのね…文化祭でアンサンブルコンサートをやろうかなって思っているんだけど、月森くん…どうかな?」

香穂子は事の顛末を月森に話した。

黙って話を聞いていた月森だったが、香穂子が話し終えると厳しい表情で言った。

「……いくら、リリの頼みだからといって、できることとできないことがあると俺は思うが。君は自分のことで手一杯のはず。他のことに気を取られている暇はないのではないか?」

月森の言うことはもっともだと思う。

だが、香穂子はリリの願いを叶えてあげたかった。

リリは香穂子にヴァイオリンを…音楽を楽しむことを教えてくれた大切な人だ。

もし、このままリリの魔法の力が弱くなり続け、彼が存在できなくなってしまったらと思うと、いてもたってもいられない。

「確かに大変かもしれない。ソロコンサートに出られることになったといっても、たぶん、ギリギリで……自分でも、もっともっと練習しなきゃダメだってわかってる。
でもね、リリがわたしの…ううん、わたしたちの力が必要だって言うなら力になってあげたいの!」

今にも空気に溶けてしまいそうなほど姿に重量感がなかったリリ。

このまま、リリと会えなくなってしまうのは嫌だ。

香穂子は、必死に月森に訴えた。

「ソロコンサートの曲の練習もアンサンブルの曲も一生懸命、練習する!だから、月森くんも……」

「……アンサンブルには興味がない」

「月森くん!」

月森の長い睫毛に縁取られた瞳が一旦、伏せられる。

「だが……」

固唾を呑んで、月森の言葉の続きを待っていると、しばしの間、彼の瞳が迷うように揺れた。

アンサンブルに月森がメンバーとして入ってくれれば鬼に金棒だろう。

だが、月森が考えた末に出した答えに対し、それ以上、食い下がることはできない。

月森は一度、こうと決めたことを覆すような性格ではないのだ。



やがて、月森は香穂子をまっすぐ見つめた。

「君がどうしても俺を必要だと……アンサンブルメンバーに加えたいと思っているのなら俺の条件も聞いてほしい」

「条件?」

月森はいったい何を条件に出すつもりなのか。

香穂子は月森が口を開くのを待った。













「……柚木、柚木ってば!」

どうやら、さっきから呼ばれていたらしい。

柚木は今の今までしていた思考を綺麗に封印してしまうと、火原に穏やかな顔を向けた。

「なんだい、火原?」

「何って……俺の話、全然、聞いてなかったんだな。柚木がぼんやりするなんて珍しいよね。何かあったの?」

「ああ…ごめんよ。なんでもないんだ。ちょっと昨夜、遅くまで勉強していてね…そのせいかな。疲れているみたいだ」

口からスラスラと出まかせを言うと、火原は疑いもせず心配そうに柚木の顔を覗き込んだ。

「もう〜柚木はそんな、一生けん命勉強しなくても成績いいんだからさ…あんま無理すんなよな」

「ありがとう、火原…ああ、それより、話ってなんだい?悪いけれど、もう一度、話してくれないかな」

「うん、さっき、昼休みにバスケしてた時に土浦に聞いたんだけどさ。日野ちゃんが文化祭にアンサンブルコンサートしないか、って言ってるんだって」

「コンサート?」

朝、香穂子は何も自分には言っていなかった。

(いったい、どういうことだ?)

火原はコンサートを開くに至った経緯を、時折、脱線しながら話してくれた。

柚木は聞き終わると、かすかにため息をついた。

(まったく…また、あいつは厄介事を引き受けて……自分の練習だけで精一杯だろうに)



「ねぇ、柚木はどうする?俺、コンサートやりたいなぁ。どんな曲、やるのかな?今から楽しみだよ」

火原はやる気満々のようだ。

「火原……君だってソロコンサートにオケ…その上、アンサンブルだなんて無理なんじゃない?それに、この前の模試だって、あまり良くなかったって…大丈夫なのかい?」

「だ、大丈夫……たぶん。それよりさ、わくわくするよね!俺、アンサンブルって大好きなんだ」

どうやら、火原は受験のことは考えたくないというよりも、目下の楽しみに夢中のようだ。

「で、柚木はどうする?柚木は俺と違って成績いいんだしさ、やろうよ!」

「……そうだね…できることなら僕もみんなと一緒にやりたいけれど…」

柚木は顔を曇らせた。

「やろうよ!日野ちゃん、コンクール参加者全員に声、かけてみるってさ。もちろん、土浦はやるって。それに、たぶん志水くんや冬海ちゃんだって」

火原は、そこに敢えて月森の名前をいれるのを避けたのだろうか。

柚木は考えた。

恐らく、月森もメンバーに入るだろう。

普段の彼であれば、自分の練習優先で何の得にもならないことはしない。

けれど、香穂子に請われれば、嫌とは言うまい。むしろ、率先してやりそうだ。
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