金色のコルダ〜柚木編〜
□柚木編〜6〜
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掌から震えが伝わってくる。
自分の手と同じくらいに香穂子の頬は冷たかった。
以前、触れた時は紅潮して燃えるように熱く感じられたのに、今はただ怯えしか感じられない。
いったい、どこで気持ちが離れてしまったのだろう?
香穂子は最終選考が終わるまで待ってくれと言い、自分も待つと頷いた。
『わたしは、柚木先輩が、フルートをやめないでいてくれるのなら、他のことは、どうでもいいって思ってたから』
だが、結局、あの言葉が彼女の真実だったように思える。
恐らく、香穂子もあの時はまだ自分自身の気持ちに気づいていなかったのだろう。
だが、月森は最初から彼女が柚木に惹かれていたことに気づいていた。
気づいていながらも、心の底から彼女を想えば、いつか彼女も自分の想いに答えてくれると思おうとしていた。
だが………。
以前は確かにあたたかな眼差しで自分を見つめていた香穂子の瞳は、戸惑ったように揺れている。
もし、ここで彼女を抱きしめ放さず、誰の目も届かないような場所へ連れ去ってしまえば彼女を自分のものにできるだろうか。
先程の教師から、留学についての返事を聞かせてほしいと言われた。
以前、担任の教師から留学の話を聞かさた時、考えさせてほしいと言ったのだが、月森がいつまでも返事を寄越さないため、教師も心配になったのだろう。
教師からは、最終選考も終わり、見事、ソロコンサートの出演権も勝ち得たのだから、もう心は決まっただろう、と言われた。
君の実力なら、今すぐに留学してもやっていけるだろう、とも。
月森が今回も返事を待ってくれるように頼むと、教師から期限をつけられた。
留学するかどうかの返事の最終期限はソロコンサートが終わったその日。
つまり、11月22日まで。
教師は、なぜ、月森がそれほどまでに返事を先延ばしにするのか、理由がわからないようだった。
(もし、君も一緒に連れていくことができるのなら……)
月森は香穂子から離れると目を伏せた。
「……すまない。今、言ったことは忘れてほしい」
香穂子の瞳に安堵の色が浮かんだ。
「……うん……あ、あのね……月森くん」
香穂子が次に何を言おうとしているのかなんて、聞かずとも月森にはよくわかった。
だが、だからこそ、彼女の口から聞きたくはなかった。
「君が言いたいことはわかっている。だが、その前に俺の話を聞いてほしい」
月森はそう言うと、香穂子の瞳をまっすぐに見つめた。
「俺はウィーンへ留学しようと思っている」
「ウィーン!?いつ!?」
香穂子は驚いた様子だった。
「まだ時期は決まっていないが……恐らく、来年になってからだろう。準備もあることだし」
「そっか……月森くん、留学するんだね……いつか、月森くんならそうするだろうって思ってたけど……」
月森は香穂子の様子を伺った。
多少なりとも、淋しい様子を見せてくれたのなら、言おうと思っていた。
「…………君も行かないか?俺と一緒に」
「えっ!?」
「これからもずっとヴァイオリンを続ける気なのだろう?だったら、俺と一緒にウィーンへ行ってほしい。音楽の道を歩むのなら、海外に出るべきだ」
「ちょ、ちょっと待って、月森くん!いきなり、留学だなんて………それに、わたしは月森くんより、ずっとずっと技術も足りないし…無理だよ」
初めから、香穂子が承諾するとは思っていなかった。
今は、『留学』という二文字を彼女の頭に植え付けさせることできればそれでよかった。
月森は話を続けた。
「技術が低いのは当然だ。まだ、君はヴァイオリンを始めたばかりなのだし……だが、君には人にない才能がある。だから、この先、ヴァイオリニストとしてやっていくのなら、基礎から海外で勉強した方が成長も早いだろう。日本で変な癖をつける前に、有名な先生につけば………」
「待って、月森くん」
香穂子は月森の言葉を遮ると静かな口調で答えた。
「ありがとう……そう言ってもらって、すごく嬉しい。でもね、わたし、将来、ヴァイオリニストになりたいって思ってるわけじゃないの。ただ、今より、もっともっと練習していろんな曲が弾けるようになって、聴いてくれる人が喜んでくれて……そういうのがいいの。だから………」
自分と同じように香穂子はヴァイオリニストとしての道を歩んでいこうと思っているに違いないと思っていたから、月森は驚いた。
自分で満足がいくような演奏ができるようになることももちろんだが、有名なヴァイオリニストたちと肩を並べ演奏活動をしたいと月森は思っている。
そのために、良い師について勉強し、多くのコンクールへ出場し、キャリアを積むべきだと考えている。
恐らく、香穂子はまだヴァイオリンを始めて日が浅いから、何もわかっていないのだ。
月森はそう思い直すと、香穂子に言った。
「君の演奏をたくさんの人に聴いてもらいたいのなら、やはりヴァイオリニストになるべきだと思う。そして、ヴァイオリニストになるためには、クラシック音楽の本場で勉強するのが一番だと思う。俺は、これからもずっと君と切磋琢磨して音楽の道を歩いていきたい」
香穂子は月森の話を聞いている間、じっと目を逸らすことなく真剣に耳を傾けてくれているように見えた。
「すぐに返事をしなくても構わない。だが、考えてほしい」
「……月森くん……わたし、これからもヴァイオリンの練習はしていくし、月森くんのいうように、できることなら、たくさんの人にわたしのヴァイオリンを聴いてもらえたらな、って思ってる。
でもね、それは、別にちゃんとしたコンサートホールとかで聴いてもらわなくてもいいの。
公園や森の広場で練習している時に、自然と足を止めてもらえて、聴いていて楽しいな、って思ってもらえるだけで嬉しい。
それに………」
香穂子は一旦、言葉を切ると口元に微笑みを湛えた。
「本当にわたしのヴァイオリンを聴いてもらいたいって思うのは、ひとりだけなの。その人に喜んでもらえればそれで……」
「香穂子………君は……」
月森はそれ以上、何も言うことができなかった。
いつの間に、こんな穏やかな顔で柚木のことを語るようになったのだろう。
ほんの少し前までは、こうではなかった。
香穂子も柚木もお互いを想いながら、すれ違って互いを信じられないでいたはずだった。
(いったい、ふたりの間に何が……)
先程、廊下ですれ違った時の柚木の言葉は、いつもの挑発に過ぎないと思っていた。
だが、あれは香穂子の心をその手に得た柚木の余裕からくるものだったのか。
月森は両の拳を握り締めた。
爪はヴァイオリンを弾くために、いつも短く切ってはいるが、それでも握りしめると爪は皮膚に食い込む。
だが、まったく痛みを感じなかった。
もう、これで終わりなのだろうか。
もう、香穂子を諦めねばならないのか。
キキッと錆びた音がした。
反射的に目をドアの方へ向けると、長い髪を靡かせて柚木が現れたところだった。
「柚木先輩」
ほっとしたような、それでいて弾んだ香穂子の声がした。
「話は終わったかい?あまり遅いから心配になって迎えに来たのだけれど、もう帰れる?」
そう言って柚木が近づいてくる。
香穂子の視線が自分から柚木へと移っていく。
「はい。あ……あともう少し待っていてもらえませんか?」
「いいよ」
「ありがとうございます。あの、月森くん。さっきの話だけど……」
気づいた時には行動していた。
理性よりも本能が優先したのは、後にも先にもこの時だけだと思う。
月森は柚木の目の前で香穂子を抱き込むと有無を言わさず口吻けた。
一瞬、目の端に驚愕に目を見開いた柚木の顔が見えたが、そんなものはどうでもいいことだった。
「月森っ!貴様!」
柚木に引き剥がされる前に、月森は香穂子から離れた。
衝撃のあまり、よろめいた香穂子をすかさず、柚木が支えた。
香穂子は呆然としたまま自分を見ている。
月森は口元を歪めると香穂子に告げた。
「君が誰をどう思っていようと、俺は君を愛している……ヴァイオリンのことも………考えておいてくれ」
月森はそう言うと屋上から去って行った。