金色のコルダ〜柚木編〜
□柚木編〜5〜
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いよいよ、文化祭のソロコンサート奏者を決める最終選考の日がやってきた。
練習時間は少なかったものの、出来る限りの練習はしてきた。あとは、自分を信じて今できる最高の演奏をするだけだ。
すでに最終選考は始まっている。
今はピアノ科の選考中で、香穂子たちヴァイオリン選考の生徒たちは控え室で待たされていた。
こうして待っている時間が一番、嫌だと思う。
ヴァイオリンを始めた頃よりも、今の方が緊張する気がした。
初めの頃は、怖い物知らずで、自分の出来がどうとかよりも、無事、最後まで弾ければそれでいいと思っていた。
元々、好きで始めたヴァイオリンではなかったから、とりあえず、セレクションに出さえすればいいと義務感で弾いていた。
だが、思いがけず拍手をもらい、観客である生徒たちからの楽しそうな笑顔を見た時、もっとヴァイオリンが上手くなりたいと思った。
他のコンクール参加者に負けないくらい、もっともっと、と。
同じヴァイオリン専攻の月森の演奏は、特に衝撃だった。
同じ楽器を弾いているのに、なぜ、こんなにも音色が違うのだろう、と思った。
あんな風にいつか弾けるといい……月森は香穂子の憧れであり、目標だった。
それは、今でも変わらない。
自分と月森を比べれば、天と地ほどの差がある。
だが、同じ立場で彼と競い合うことができる機会を与えられたことに感謝している。
これからも、月森は自分にとって『前を歩く者』として、憧れ続けるのだろうが、いつかは、ライバルとして認められたいと思っている。
香穂子は、そっと月森を伺い見た。
月森は普段とまったく変わらぬ様子で楽譜に目を落としていた。
月森は今日、何を弾くのだろう?
屋上で、楽譜を手渡されて以来、彼とは話す機会がなかった。
同じクラスなのだから、話そうと思えば、いくらでも話すことはできた。
楽譜の礼も、きちんとしたいと思っていた。
だが、結局、香穂子は月森と目を合わすことさえ、出来ずにいた。
だから、いまだに、月森には柚木を選んだことを言っていない。
(でも、今日の選考会が終わったら……ちゃんと言わなくちゃ)
香穂子は目を伏せた。
同じように楽譜に目を走らせる。
楽譜には、無数の注意書きがしてあった。
土浦からのアドバイスもあったが、ほとんどは、柚木から注意されたことを書き込んだものだった。
昨日も忙しい休日を割いて、熱心にヴァイオリンの練習に付き合ってくれた。
『俺の教授料は高いぜ』
そんなことを言いながらも、柚木は何の見返りも要求することなく指導してくれた。
それが香穂子には嬉しかった。
香穂子がソロコンサートの出演権を得ることができれば、柚木はフルートを続けると約束してくれている。
これほど、熱心に練習を見てくれるということは、柚木も心の中ではフルートを続けたいと思っているのだろう。
だから、何が何でも、ソロコンサートの出場権が欲しかった。
柚木に大切な物は何一つ、手放して欲しくない。
「ヴァイオリン部門が始まります。舞台袖に向かってください」
教師のひとりが3人を呼びに来た。
(いよいよ始まる……)
藤原由希子に続いて月森がドアを開けて廊下に出るのを待って、香穂子も控え室の外に出た。
だが、そのまま、講堂に向かおうとした香穂子は月森に呼び止められた。
「……香穂子」
月森は香穂子に向かって手を差し出した。
「月森くん?」
「……お互い、悔いの残らない演奏をしよう」
「……うん」
香穂子は躊躇いがちに、そっと差し出された手に触れた。
瞬間、月森が強く手を握り締めてきたので、香穂子は驚いて彼の顔を見つめた。
「月森くん?」
「…………なんでもない。急ごう」
月森は、手を放すと、くるっと背中を向け先に行ってしまった。
香穂子は握られた掌をじっと見つめた。
………掌には、月森の想いがこめられているような気がして胸が苦しくなった。
「やっと、日野さんの演奏が聴けるよ。ずっとこの日を待っていたんだ」
柚木は香穂子の名前が聞こえてきた方へ視線を向けた。
最終選考会を聴きに来た生徒は思っていた以上に多かった。
音楽科の生徒が関心あるのは、あたりまえなのだが、その音楽科の生徒たちに混じって、ちらほら普通科の生徒たちの姿も、かなりあった。
やはり、春の学内コンクールのおかげなのだろう。
それに、香穂子が普通科から音楽科へ転科したことで、その後の彼女がどれだけ上達したかを見てみたいという、半ばヤジウマ的なものもあるのかもしれない。
斜め前の席に座っている男子生徒の横顔には、見覚えがなかった。
「そういえば、おまえって、日野目当てで、うちの高校に転入してきたんだっけ」
(香穂子目当てだって?)
聞き捨てならないことを耳にしてしまった柚木は、耳を欹てた。
「そうだよ。それなのに、転入してみれば、日野さんは普通科から音楽科へ転科しててさ・・・いったい、何のためにコネというコネを総動員してまで、転入したのか、わからないよ」
そう文句を言いつつも、この普通科の2年生の男子生徒は、選考が始まるのを、今か今かと心待ちにしているようで、落ち着かない様子だ。
「しっかし、加地・・・おまえも物好きだよな。普通、そこまでするか?」
呆れたように言うクラスメイトに対し、加地と呼ばれた生徒は当然のように答えた。
「なんと言われてもいいよ。だって、彼女のヴァイオリンは、そうまでする価値があるんだから。僕には、わかるんだよ・・・彼女の奏でる音色が、どんなに素晴らしく稀有なものなのか」
『加地』と呼ばれた男子生徒は、香穂子を、まるで女神か何かのように崇めている。
(あいつも、随分と有名になったものだな)
柚木は口端に笑みを浮かべた。
どこで、彼が香穂子のヴァイオリンを聴いて夢中になったのかは知らないが、今頃、のこのこ出てきても遅い。
香穂子の才能に気づき、惚れ込むところなど、なかなか見所があるが、彼がそれ以上、香穂子に近づくことはできない。
(残念だね、『加地くん』……君が、わざわざ転校してきてまで近づきたいと思った子は、俺のものなんだよ)
柚木は心の中でそう呟くと、もうすぐ始まるであろうヴァイオリン専攻の候補者たちの演奏を待った。
最初の演奏は藤原由希子だった。
表面的には美しい演奏だったが、それだけだ。
一定以上の拍手は起こったが、次の演奏者の名前がアナウンスされると、拍手は、ぴたりと鳴り止んだ。
次は月森だ。
月森は平静とまったく変わらない様子でステージの中央に立った。
『チャイコフスキー、ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35〜第1楽章』
月森は、この名曲を、かなりテンポを落として、たっぷり歌い上げるように弾いた。
決して技術一辺倒ではない、情感豊かで多彩な音色。その上、精緻で隙のないスケールの大きな演奏は、恐らく今までの彼の演奏の中で一番の出来だろう。
だが、柚木は少しも心配していなかった。
多少、荒削りとはいえ、香穂子の演奏は、かなりレベルの高いところまでいっている。
何より、人を惹きこむものが彼女にはあった。
練習量では補えない、心の底から沸き出でるような感情を香穂子は持っている。
自分が教えられるものは、全て教え込んだ。あとは、いかに、彼女が緊張せず、普段の自分を出しきれるかどうかだ。
藤原由希子と違って月森のための拍手は、なかなか止まなかった。
香穂子のことで揺れて不安なはずだろうに、それを内に秘め、決して演奏に響かせなかったのは、月森の精神力の強さの現われだろう。
月森は、自分よりも、ずっと強い………柚木は、そう思った。
最後に香穂子が、鳴り止まない拍手の中、ステージの上に現れた。
香穂子は、まっすぐに背を伸ばし、静かな足取りでステージ中央に立った。
少し、緊張しているのか、表情が硬い。
演奏曲は、フランクのヴァイオリンソナタイ長調。
香穂子は、第四楽章アレグレット・ポコ・モッソを穢れのない美しい世界を導くように歌い上げた。
彼女らしい透明感のある音色は、観客たちを魅了したようだった。
それを証拠に、先程、香穂子を褒め称えていた加地という男子生徒などは、立ち上がって拍手をしている。
彼につられたように、他の生徒たちも立ち上がって拍手しだした。