金色のコルダ〜柚木編〜
□柚木編〜4〜
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柚木の家に着いたのは、7時を少し過ぎた頃だった。
誰もいないとはいっても、それは両親と祖母たちの話であって、家の中には使用人もいて無人ではなかった。
何度か来ているとはいえ、やはり緊張する。
自分の家とは、まったく違う。
家屋敷の広さにしても、室内の調度品にしても……何より空気が違った。
今日、柚木が自分を招いたのはヴァイオリンを見てもらうためなのだから、ドキドキする必要もないのだが、腰に添えられた柚木の掌を意識しないではいられなかった。
ここへ来る前に、交わしたキスの余韻が熾火のように香穂子の中に残っている。
(キスだけじゃ、足りないって思うなんて………)
だが、あの場で、『もっと』とねだる勇気が香穂子にはなかった。
好きになればなるほど臆病になっていく気がする。
柚木に言いたいこと、話したいことがたくさんあるはずなのに、怖くて口に出せない。
たとえば、紫のこと。
たとえば、月森のこと。
そして………自分のこと。
想いが通じ合ったものの、不安が消えるどころか、ますます胸の奥深くに降り積もっていくような気がした。
柚木は自分の部屋ではなく、ピアノが置いてある洋間に香穂子を連れていった。
部屋の中央にグランドピアノが置かれていて、壁際には二人掛けくらいのソファーがあった。
元々、この部屋は和室だったものを洋室にリフォームしたのだと柚木が教えてくれた。
「さて、まずCDを……とも思ったが、時間は有効に使わないとな」
柚木はそう言うと、ピアノの前に座った。
「俺がピアノ部分を弾いてやるから、おまえはヴァイオリンを弾け。くれぐれも、巧く弾こうだなんて思うなよ」
「え……でも……」
意味が、わからないというような顔をすると、柚木は、ドレミファソラシドと流れるような手つきで音階を弾いてみせた。
「たとえば、このピアノ。誰でも叩けば音が出る。だが、難しい曲を最初から最後まで正確に弾けば、聴衆から拍手をもらえるかといえば、そうじゃないことくらい、おまえにもわかるだろう?
楽譜の中に込められた作曲家の意図を知ることも大切だが、それ以上に弾き手が、どう解釈し自分の物にできるかが大切なんだ。
まず、おまえが、この曲をどう表現したいか………それから曲を仕上げていこう。ま、どう頑張ったって、演奏技術で、彼に敵うわけもないんだしな」
香穂子は柚木の言葉に神妙に耳を傾け、頷いた。
「はい、わかりました」
すると、柚木は苦笑した。
「こうしていると、なんだか、教師と生徒みたいだな。言っておくけど、俺は結構、厳しいぜ。ついてこられるか?」
「柚木先輩が厳しいってことくらい、とっくに知ってます」
香穂子は笑った。
特に音楽に関して、柚木は妥協することがない。下手な慰めもお世辞もない。
香穂子が教え甲斐のない生徒だとわかったら、早々に見切りをつけるだろう。
香穂子は表情を引き締めた。
「お願いします」
柚木は満足したように頷いた。
「いくよ」
「おばあさま、本当によろしいんですの?こんな夜遅く、突然にお邪魔しては、梓馬さんにご迷惑なのでは?」
「あなたは、梓馬の婚約者なのです。誰に遠慮することはありません」
柚木の祖母はパーティー会場に来ていた紫を家に招いた。
思っていたよりも、あっさりと婚約を受け入れたものの、それ以降、何の進展もないようなのが気になっていた。
ちょうどいい機会だから、紫を家に連れてきて、ふたりの意思を確認しようと考えたのだ。
車から降り、門の中に入ると、風に乗ってピアノが聴こえてきた。
珍しいこともあるものだ。
コンクールが終わってからは、フルートの音さえ聴くことも、あまりなかったからだ。
「これは……フランクでしょうか?あら、でも………」
紫が首を傾げたと同時に柚木の祖母も気がついた。
「どなたかが、一緒にヴァイオリンを弾いていますわね。雅さんかしら?」
「いいえ、あの娘はヴァイオリンは弾けません。ピアノはある程度、弾けるけれど……」
そういえば、と柚木の祖母は考えた。
何度か、同じ高校の後輩だという女子生徒が訪ねてきたことがあるらしい。
その時は、特別、関心を持たなかったのだが………。
「あ、もしかしたら、香穂子さんかしら?確か、梓馬さんの後輩ということで、よく面倒を見ていらっしゃるようですわ」
「梓馬が?」
柚木の祖母の眉がぴくりと動いた。
「えぇ。梓馬さんは、その方のこと、たいそう、目をかけていらっしゃるようにお見受けしました。昨夜も、香穂子さんと食事をご一緒しましたんですのよ」
「…………それで、その後、梓馬は?」
どことなく晴れやかな顔をしていたように見えた。
そして、何かを隠しているようにも………。
あの場では、問い詰めはしなかったが、梓馬の態度に気になるところがあったのは確かだ。
「きちんと送っていただきましたわ。その後、ご自宅へ戻られたはずですわ…………それが、どうかしまして?」
「いえ、なんでもないのですよ。それより、早く中へ。きっと、梓馬もあなたの顔を見れば、喜ぶでしょう」
「わたくしも、早く梓馬さんにお会いしたいですわ」
柚木の祖母は、前を向くと唇を引き結んだ。
ピアノとヴァイオリンの音は、いつの間にか途絶えていた。
何度か、通して弾いた後、ようやく、柚木からOKをもらって胸を撫で下ろす暇もないうちに、気づいた時には柚木の膝の上に乗せられていた。
「おまえに、頑張ったご褒美をやらないとね」
「やっ……柚木先……ぱ…い」
顎に手が添えられたかと思うと、すぐに唇がおりてきた。
不自然な形で柚木の上に乗せられているため、少しでも身動きしたら落ちてしまいそうだ。
だが、キスと共に左手が制服の上着の裾から忍び込んできたため、思わず身を引こうとしてバランスを崩してしまった。
落ちると思った瞬間、柚木の腕が香穂子の背中に回って支えてくれた。
「無闇に動くからだぜ」
柚木は、安堵の表情を浮かべた。
「すみません……あ、でも、元はといえば、先輩がいけないんですよ」
香穂子は頬を膨らませた。
その頬を軽く抓られる。
「別に『イケナイ』ことなんてしてるつもりはないぜ。さっきも、言っただろ。これは、おまえへのご褒美」
そう言って、今度は、しっかり香穂子の腰を支えたまま首筋にキスをした。
そこには、昨夜、彼がつけた紅い花びらが散っている。
舌でくすぐるように舐められ、軽く吸われると、それだけで背筋が、ぞくりとした。
だが、それは柚木も同じなようで、抱き合って密着している下腹部の辺りに柚木のそれが質量を増しているのを感じた。
家族のものは誰もいないとはいえ、さすがに、ここで行為に及ぶのは躊躇われる。
そうこうしているうちに、耳元に柚木の吐息がかかり耳朶を噛まれた。
「ア……」
小さく声を上げた香穂子に柚木が囁いた。
「……このまま、おまえを抱いてしまおうか」
「柚木先…輩……わたし……も………」
だが、言いかけた瞬間、柚木は香穂子を引き離した。
「柚木先輩?」
「シッ……誰か来る。まずいな……」
柚木は、スっと立ち上がると香穂子にヴァイオリンを持たせた。
「そこで、ヴァイオリンを弾いていた振りをするんだ」
「は…い……あ、あの……」
香穂子が戸惑う表情を見せていると、柚木は早口で告げた。
「お祖母さまかもしれない。さ、そこに立って」
香穂子が言われた通り、ヴァイオリンを構えるのと、ドアがノックされるのが同時だった。
「梓馬、入りますよ」
柚木がドアを開けようとノブに手をかけるよりも前に、ドアが開いて祖母が中へ入ってきた。
「お祖母さま……随分とお早いお帰りだったんですね」
「……梓馬、いったいこれは、どういうことです?この方は?」
「以前、お祖母さまに紹介したことがありましたよ。覚えていらっしゃらないですか?……彼女は…」
「こ、こんばんは。日野香穂子といいます。お邪魔してます」
香穂子は慌てて頭を下げた。
柚木の祖母と顔を合わせるのは、これで2度目だが、あの時とまったく変わらない。
高圧的で優しさのかけらさえ表情に出さない。
香穂子の頭上に厳しい声が降ってきた。
「家の者が皆、出払っている時に家に上がるなんて、随分と非常識な娘さんね。しかも、こんな時間に」
香穂子は驚いて顔を上げた。
いきなり冷水を浴びせられたように身が竦んだ。
「すみませんでした」
確かに軽率だった。
「さあ、お帰りなさいな。車を出してあげます」
「……はい」
「ちょっと待ってください、お祖母さま。彼女は僕が招待したんです。彼女は、今度の文化祭に開かれるコンサートのソロ奏者候補なんですよ。選考会が来週頭に迫ってきているため、僕で力になれるなら、とCDを貸そうと思って……」
だが、説明する柚木を一瞥すると、祖母はにべもなく切り捨てた。
「どんな理由があるにせよ、こんな時間に年頃の男女が一緒にいること自体が問題だと言っているのです。それに、おまえは受験生でしょう。後輩の面倒を見ている余裕があるなら、その分、勉強なさい」
いつもの柚木なら、祖母に口答えなどしなかっただろうが、今日は違った。
「勉強なら、お祖母さまの心配には及びません。受験だからといって、焦って勉強しなくとも、日々、きちんと積み重ねてきたものがありますから」
「………それなら結構。けれど、そのお嬢さんは早々にお引取り願いなさい。お客様が見えているので、おまえはその相手をしなさい」
「客?誰です?」
柚木が訊ねると、祖母が口を開く前にその人物が祖母の背後から現れた。
「こんばんは、梓馬さん。おばあさまのお言葉に甘えて、来てしまいましたの」
「紫さん……」
柚木が動揺しているのが、わかった。
これ以上、柚木が困るようなことになってはいけない。
今日のところは帰った方がいいと思った。
だが………。
「やっぱり、香穂子さんでしたのね。ヴァイオリンの音が聴こえたから、もしかして、と思いましたの。それで……もし、よろしければ、わたくしがあなたのヴァイオリンを見てあげますわ」
「え?」
紫は蕾がほころぶように微笑んだ。
それは、どこから見ても誰が見ても、非の打ち所のない笑顔だった。
「これでも、わたくし、ヴァイオリンは3歳から習っていますのよ。梓馬さんは、フルートでしょう。ここは、やはり同じ楽器のわたくしの方が適役だと思いますの。ね、どうかしら?」
「あ、あの………」
香穂子は、どう答えればいいのかわからず、助けを求めるように柚木を見た。
「………お申し出は嬉しいのですが、紫さんの手を煩わせるわけにはいきませんよ。それに、お祖母さまのおっしゃるとおり、もう時間も遅いので彼女も帰られないとご両親が心配なさるでしょうしね。ね、日野さん」
ちらりと柚木が香穂子を見た。
ここは、言うとおりにしろということらしい。
「はい……お邪魔しました。柚木先輩には……ご迷惑おかけしてしまって…すみませんでした」
先程までの高揚した気分は跡形もなく消えていた。
代わりに鉛を飲み込んだような重苦しさを感じる。
惨めだった。
紫のことも、柚木の家のことも、わかっているつもりだった。
けれど、実際には何もわかっていなかったのだ。
ここは、香穂子が足を踏み入れていい場所ではなかった。
目頭が熱い。
だが、涙を見せるわけにはいかない。
香穂子は無理矢理、明るい笑顔を作ると柚木に言った。
「ありがとうございました。教えてくださったところは、ちゃんと練習しておきます」
「………香穂子……」
柚木は苦しそうに香穂子の名を呟いた。
そんな柚木の顔を見ているのはつらい。
「じゃ、じゃあ、これで帰ります」
部屋を出ようとした瞬間、柚木の祖母のいかつい声が背中に響いた。
「お待ちなさい」
びくっとして足を止めたものの、何を言われるのか怖くて、振り返ることができない。
「梓馬は、婚約者のいる身。たとえ、梓馬があなたを親切心から面倒をみようとしても、今後、この家に足を踏み入れることは控えるように。わかりましたね」
とりあえず、素直に従っておけばいい。
そう思うのに、声が出なかった。
香穂子は頷くこともできずに、逃げるようにその場を後にした。
「日野!」
柚木が自分を呼ぶ声が聞えた。
だが、こんな時でさえ、器用に名前を呼び分ける柚木を振り返ることはできなかった。
それに、柚木は追いかけてはこないだろう。きっと、祖母に止められてしまう。
香穂子は、奇跡的に1度も迷わずに玄関に辿り着くと、柚木の家から飛び出した。