金色のコルダ〜柚木編〜
□柚木編〜2〜
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柚木にドレスアップして来いと言われたものの、香穂子は鏡の前で途方に暮れていた。
何を着ても自分に合っていない気がした。
もちろん、香穂子が持っている服は全て、自分が気に入って買ったものだ。普段は、何の気なしに着ていて、それが似合うのかどうかなんて気にすることも、ほとんどなかった。
元々、女の子女の子した服よりも、カジュアルで動きやすい服を好んでいるので、柚木が行くような高級な店に合うような服などあるわけがない。
(それに・・・)
香穂子の脳裏に紫の姿が浮かんだ。
いかにも深窓の令嬢のような女性だった。
決して華美ではないが、上品な色合いと着る人を最大限に美しく見せるデザインが、彼女の育ちの良さを表しているようだ。
柚木の隣に並んでも決して見劣りしない美しい人。
どう足掻いても、太刀打ちできっこない。
香穂子は、着ていた服を脱ぎ捨てた。
たとえ、ここに数十万もするドレスがあったとしても自分に似合うわけはない。
「それなら・・・」
香穂子は床の上に散らばった服たちを見渡した。
足下に、少し皺になってしまった服を拾い上げると頭から、それを被った。
「これでいいんだ」
香穂子は、鏡に映った自分にそう言い聞かせると口元に微笑を浮かべた。
(あいつは本当に来るだろうか?)
柚木は車の中で、そればかりを考えていた。
来る・・・来ない・・・・・・花びらの恋占いのように頭の中でそればかりを繰り返している。
もう期待するのは止めようと決意したばかりだというのに、油断するとすぐに心が揺らいでしまう。
愚かな自分に反吐が出そうだ。
自分の意思で月森にキスをした、と聞かされた瞬間、彼女と自分を繋いでいる糸が切れたと感じた。
今まで、どれほど頼りない糸だとしても自分が手を放さない限りは切れることはないと信じてきた。
いや・・・無理矢理、信じこもうとしていただけだったのかもしれない。
最初から、わかっていたことだったのに、今まで彼女を繋ぎとめようとしていた自分が愚かだった。
月森から香穂子を奪い取っても、心を得ることは、ついにできなかった。
所詮、自分は心から欲しいと願ったものは、何一つ手に入れられない運命なのだ。
そう納得したから、石田紫との婚約を受け入れた。
ただ一人、欲しいと思った女を手に入れることができないのなら、きっぱり未練を断ち切らなければならない。
・・・・・・2度と、後戻りできないように。
紫が心配そうに見つめていたことになど、眉間に皺を寄せて考え込んでいる柚木は気づくことはなかった。
先に車から降りた柚木は、紫に手を差し伸べて彼女が下りるのを手伝った。
「ありがとう、梓馬さん・・・あの・・・もしかしてご気分でもお悪いのではないですか?」
「いえ、そんなことはないですよ・・・でも、どうしてそんなことを?」
柚木が訊ねると紫は睫毛を伏せた。
長い睫毛が頬に影を落とした。
「なんでもないのでしたら、いいんですの・・・ただ、車の中で何か思い詰めたようなお顔をなさっていたから・・・」
「貴女に心配をおかけするようでは、婚約者、失格ですね・・・すみません」
柚木は微笑を浮かべ、そう謝った。
「そんな・・・失格だなんて・・・梓馬さんは、わたくしには勿体ないお方ですわ」
「そんな風におっしゃっていただけて光栄ですね」
あくまでも優雅な微笑みを絶やさない。
柚木は非の打ち所のない彼女の婚約者としての役割を、果たすつもりだった。
大したことではない。
十何年も、優等生の仮面を被り続けてきたのだから、今さらそれに『立派な婚約者』としての仮面が増えても何の問題もない。
紫は、しばらく柚木の顔色をじっと見つめていたが、やがて安心したように微笑み返してきた。
柚木は、ごく自然に紫の腰へと腕を回した。
「予定の時間より、少し遅れたようですね・・・さあ、行きましょう」
「ええ」
だが、いくらも歩かないうちに、柚木の足が止まった。
「!!」
ホテルのエントランスの前に香穂子の姿をみつけたからだった。
突然、足を止めた柚木を訝しげに見つめ、彼の視線の先を追った紫も、すぐに香穂子に気づいた。
「梓馬さん・・・あの方は確か・・・」
柚木は紫の呟きなど、まったく耳に入らない様子で立ち尽くしていた。
香穂子は柚木の視線に気がつくと、まっすぐ彼の元へとやってきた。
「こんばんは・・・柚木先輩」
香穂子は制服姿だった。
ドレスアップして来いといった言葉を無視し、制服でやってきた彼女を、柚木は呆然と見つめた。
「・・・なぜ、来た?」
そう声に出して言ったつもりだったが、あまりにも掠れ声だったので、香穂子の耳に届いたのかどうかは、わからなかった。
だが、ちゃんと届いていたらしい。
香穂子は柚木の目の前まで来ると、頭を下げた。
「・・・今日は・・・お招きいただきありがとうございます」
そして、頭を上げた香穂子は、普段よりも青い顔で柚木を見つめた。
緊張しているのだろう。口元が不自然に強張っている。
それでも、柚木に負けまいと背筋を伸ばし、視線を外さない香穂子は冴え冴えとした今夜の月のように凛として見えた。
「香穂・・・子・・・」
狼狽していた柚木を現実に引き戻したのは、紫だった。
「日野さん・・・でしたわよね?こんばんは。偶然ね、わたくしたち、ここにお食事しに来たのよ」
香穂子は覚悟してきたのか、まったく動揺を見せなかった。
「こんばんは、紫さん」
軽く頭を下げた香穂子は、紫に言った。
「・・・・・・柚木先輩に招待されて来ました」
「まあ・・・そうだったんですの?」
紫が内心、どう思っているかは、わからないが表面上は、それほど驚いた様子も嫌な顔ひとつも見せなかった。
「すみません・・・貴女に一言もなく勝手なことをしてしまいました」
柚木は、すでに平静さを取り戻していた。
「いいんですのよ。お食事は、たくさんの方が楽しいですもの。それに、日野さんとはお友達になれたらと思ってましたの」
「え?」
香穂子は思いもよらないゆかりの言葉に目を瞠った。
「どうしてかは、わからないけれど・・・わたくし、あなたのことが気になってたんですの」
「・・・・・・」
「さあ、行きましょう」
紫は香穂子の手をとった。
香穂子は、戸惑っている様子だったが、おとなしく従った。
だが、ホテルの中へ入ろうとした香穂子を柚木が呼び止めた。
「日野さん、ちょっと待ってくれないかな」
香穂子が振り向くと、柚木は微笑を湛えながら言った。
「僕の記憶に間違いがなければ、確か、ドレスアップして来てほしいと頼んだはずだけど?」
「だから、制服で着たんです」
「・・・どういう意味かな?」
「ドレスなんて、持っていなかったし、だいたい、わたしには似合わないと思ったからです。でも、こういうところで食事というのなら、普段、わたしが着ているような服では入れてもらえません。だったら、制服でいいと思いました」
彼女の毅然とした物言いは、道理に適っていたが、柚木は首を振った。
「そうだね。制服は、君によく似合っているよ。でも・・・・・・」
なおも言い募ろうとした柚木を制して、紫が横から口を挟んだ。
「いいじゃありませんの。日野さんの言う通り、制服であれば構いませんことよ。でも、もし、梓馬さんが気になさるというのでしたら、今からわたくしに付き合ってくださらない?日野さんのドレス、わたくしに選ばせていただけないかしら?」
「え?」
香穂子は驚いて紫を見、柚木を見た。
「ねえ、行きましょう?梓馬さん、少し、わたくしに時間をくださいませんか?」
紫は、はしゃいだ様子で瞳を輝かせている。
「・・・それは構いません。ですが、貴女にそんなことまでしてもらう理由はありませんよ。日野さんは、僕の後輩です。ですから・・・」
紫は香穂子の腕に自分の腕を絡ませた。
突然のことに、ギョっとして香穂子が身を引こうとすると、その細い腕からは想像もつかないほど強い力で引き戻されてしまった。
「梓馬さんの後輩でしたら、わたくしの後輩と同じですわ」
「ゆ、紫さん・・・困ります・・・わたしっ!」
一見、おとなしやかな女性に見えるが、所詮はお嬢様育ちで我侭なのだろう。1度、こうと決めたら、頑として意志を曲げないところがあるようだった。
柚木も、ここで紫相手に押し問答するつもりはないようで、最後には紫の好きにさせることにした。
「梓馬さん、先にレストランで待っていてくださいね」
紫は楽しそうだった。
何か裏があるのでは、と勘ぐっていた香穂子も、ただ単に紫が意外におせっかいなのだろうと考えた。
ふたりは、ホテルからそう遠くないブティックに足を踏み入れた。
香穂子は、ここが以前、柚木に無理矢理、連れてこられた店だということを思いだした。
ここで、柚木は自分の趣味に合う服を香穂子に選び与えた。
鏡に映った自分が、知らない人のようだったのを覚えている。
結局、その夜の食事に着ただけで、もらう理由がないから、と柚木につき返したのだが・・・その後、服をどうしたのかは知らなかった。
紫は店の馴染み客らしく、店員たちは紫を見ると次々、恭しく頭を下げた。
香穂子は後悔していた。
なぜ、あの場で、はっきり断ることができなかったのか。
いろいろ考えて制服を着てきたのに、これでは何にもならないではないか。
紫は楽しそうに服を選んでいる。
こんなことは予想していなかった。
柚木とふたりきりの食事を邪魔しに来た女として、紫が不快感を顕にするだろうということは覚悟してきたが、こんな親切を受けるとは思っていなかった。
紫は、突然、現れた香穂子をどう思っているのだろう。
ただの柚木の後輩・・・などとは思っているわけがない。
薄々は、柚木と香穂子の間に流れる微妙な雰囲気に気づいているはずだ。
それなのに、追い返すどころか、一緒に食事をしたいと自ら誘う紫は、余程のお人よしなのか・・・それとも、香穂子など歯牙にもかける気がないくらい自信があるのだろうか?
・・・・・・柚木に選ばれるのは自分だと。
「日野さん、これ、どうかしら?」
物思いに耽っていた香穂子は、紫に肩を叩かれて慌てた。
「あ、はい」
紫は微笑むと香穂子の体に薄手のアイボリーのシースルー生地のワンピースをあてた。
「思っていたとおりね、とてもよく似合うわ」
幾重にも重ねられたフワフワした生地には薔薇の模様が入っている。
胸元も背中も、それほど開いておらず、ワンピースの裾はまっすぐではなく斜めのラインになっていた。
紫は香穂子を鏡の前に連れて行った。
「ほら見て。素敵でしょう?」
これを着た自分を見て、柚木はなんと言うだろうか。
(似合うって、褒めてくれるかな?それとも、背伸びし過ぎだって嫌味言われるかな?)
後者のような気がする。
鏡に映る自分の姿を見た香穂子は、首を横に振った。
それに、やはり何の関係もないのに、買ってもらうわけにはいかない。
「でも・・・わたしには、ちょっと大人っぽ過ぎるかも。やっぱり、わたし、このままで・・・」
「全然、そんなことないわ。きっと、梓馬さん、驚くことよ。綺麗になったあなたを見て」
クスクスと鈴を転がすようなやわらかな笑い方をする人だ、と香穂子は思った。
上品で落ち着いていて・・・とても女らしい素敵な人だ。
ようやく、香穂子は後悔し始めていた。
来るのではなかった。
紫が、柚木にふさわしいと認識させられただけだ。
屋上で、柚木が『おまえも来るか?』と言われた時、なぜ後先考えずに行くと答えてしまったのだろう。
(柚木先輩・・・)
今までは、柚木から逃れることばかり考えていた。
・・・キスも抱かれることも、こんなことをしてはダメだという罪悪感と、それでも感じてしまう自分の中にある欲深さに苛まれて苦しかったから。
いっそのこと、目の前からいなくなってくれれば、と思ったことも1度や2度ではない。
それなのに、いざ、柚木からおまえが誰と何をしようと関係ない、と突き放された途端、目の前が真っ暗になった。
身勝手だと自分でも思う。
散々、柚木の手を振り払って頑なに拒んできたのに今さら、どういうつもりだと嘲笑されても仕方がない。
けれど、柚木の方から拒絶され会えなくなると、つらくてつらくて堪らなかった。
どんなにひどい言葉で詰られてもいい。
会いたい・・・と思った。
(あの時は、ここで先輩から逃げちゃいけないって思ったから・・・)
今、逃げたら柚木は、もう永遠に後姿しか見せてくれない気がして怖かったからだ。
香穂子は紫にワンピースを返した。
「ありがとうございます。でも、もらえません。このままでいいです」
「・・・・・・そう、残念だわ」
香穂子の決意が固いことがわかったのだろう。紫は寂しそうに微笑み、それ以上、無理強いしなかった。