オリジナル

□Cruel moon1
1ページ/2ページ



月は黄色くてまあるい物だと幼い頃、教えられた。


けれど、今夜の月は見ているだけで凍えてしまいそうなほど冷たい蒼だ。


春とはいえ、まだ4月の初め。夜は意外に冷える。


凛子は身震いすると両腕で自分の躰を抱きしめた。まるでこの世でひとりぼっちになってしまった気がして泣きだしそうになる。


こうやって、玄関へ続く石階段の上に座り込んで月を眺めたのは何度目だろう?


もう数え切れないほどの年月を寂しさに震える夜に膝を抱えて見つめてきた。


優しくて、いつも凛子を見守ってくれている両親。


少し我侭で勝気だが愛らしい妹。


そして、この世の誰よりも凛子を愛してくれる兄。


恵まれていると思う。


幸せだと思う。


けれど、何か満たされないのだ。どうしても完全なる新円にはならない。


まるで、今夜の幾月のように。




石畳を踏みしめる足音が聞こえる。俯いている凛子の視線は長く伸びた影を捉えた。


影は近づき、凛子を認めると立ち止まった。


「また、おまえはそんな薄着で・・・」


「お兄ちゃん、お帰りなさい」


凛子は、ゆっくり立ち上がると手を振って兄を迎えた。


凛子の兄、樹は微笑んだ。


「ただいま」




3歳年上の樹は今年の春から都内の某有名大学の経済学部に入学したばかりだった。


今夜は新歓コンパだとかで帰りが遅くなったのだ。


ふたりは肩を並べて石段をゆっくりと上がっていく。


「今日、どうだった?楽しかった?」


「まあまあかな」


凛子は特に今夜のことを聞きたいわけでもなかった。ただ、樹と話をしているだけで心が安らかになるのだ。


嫌なことがあっても、こうやって樹と話をしていれば、いつのまにか忘れて、気分が上昇する。


昔から、樹は凛子の良き相談相手だった。




「ねぇ、お友達になれそうな人、いた?」


「そうだな。まだ、わからないよ」


「きっと、大学でもたくさんお友達できるんだろうなあ。お兄ちゃんは、もてるから」


「どういう意味だよ、それ」


樹は笑いながら凛子の頭を叩く振りをした。


「だってお兄ちゃん、男にも女の子にも好かれるもん。性格いいからね」


凛子は別にお世辞を言っているわけではなかった。


樹は、まるで太陽のように周囲を暖かく包み込むその温和で気取りのない性質と、軽妙な会話で人を和ませる。


常に樹の周囲には友人の輪が出来、笑いが絶えなかった。


凛子にとって樹は自慢の兄であり、理想とする男性だった。


もし、結婚するなら兄のような人がいいと思っていた。


凛子は兄の腕に自分の腕を絡ませると訊ねた。


「ね、お兄ちゃん?お兄ちゃんは、どんな女の子が好み?」


幼い頃から、何度も何度も訊ねた言葉。


だが、樹は面倒がらずに優しく答えてくれる。


凛子は樹がなんと答えるか知っていて訊ねるのだ。


樹は、凛子のおでこをピンとはじくと笑った。


「凛子みたいな女の子が好きだよ」


凛子は満足そうに微笑んだ。


凛子だってわかっている。樹が本気でそう思っているわけではないことを。


いつの日か、凛子の知らない綺麗で優しい女性が樹の隣に並んで微笑む日が来ることを知っている。


(でも、その日が来るまでは、いいよね?)




「お母さん、お兄ちゃん、帰ってきたよ!」


そう言いながら玄関を開けると妹の彩葉が腕組みし、壁にもたれて立っていた。


「お母さんなら、もう寝ちゃったわよ。お兄ちゃん、帰って来るの遅いって言ってたじゃない」


彩葉は樹の腕に絡んでいる凛子の腕に視線を向けた。


「兄妹なのに、ベタベタしちゃって気色悪い!」


そう捨て台詞を残すと、彩葉は、プイっと顔を背けて2階へ上がっていってしまった。


「あ、待って、彩葉!」


樹とくっついていると、彩葉は途端に機嫌が悪くなる。きっと、ひとりだけのけものにされた気がしておもしろくないのだろう。


凛子は、樹から離れた。


「・・・また、怒らせちゃった」


「気にすることないよ。あいつ、小さい時から、ちょっとしたことですぐ短気起こすけど、次の日は、いつも、けろっとしてるじゃないか」


「そう・・・なんだけど・・・」


凛子は彩葉が消えた階段を見つめた。


最近、彩葉の凛子に対する態度が、妙によそよそしくなった気がするのだ。


原因はわからない。けれど、以前のように甘えてこなくなった。


そのくせ、話しかけてこないくせに、時々、じっと凛子をみつめていたりするのだ。


それに気づいて、凛子が話しかけようとすると、今のように逃げていってしまう。


(どうしちゃったんだろう?なにか怒らせるようなことしたっけ?)


心当たりがないのに嫌われるのは悲しかった。


凛子がため息をつくと樹が頭を撫でてくれた。


「そんなに心配しなくても、そのうち元に戻るよ」


「・・・うん。そうだよね」






今日は、羽月の台高校の入学式である。


凛子は何度も鏡の前で制服のチェックをした。


真新しいこげ茶のブレザーに同系色のチェックのプリーツスカート。胸には臙脂のリボン。


制服に袖を通しただけで、ちょっぴり大人になった気分だ。


新しい生活を始める前は、ほんの少しの不安と未来への希望が入り混じって、ドキドキする。


凛子は鏡の前で笑みを浮かべた。


「よろしくね、今日から高校生のわたし」






羽月の台高校は、家から電車で1時間ほど乗った、わりと郊外にある高校だった。


凛子の中学からは、凛子を含めて数人しか行かない。


仲のいい友達は家の近くの高校へ行く人が多く、少し寂しい。


(でも、その分、新しい出会いも多くなるってことだものね!)


学校に近づくにつれ、凛子と同じ制服姿が増えてきた。


歩く姿を見ていると、どれが新入生かそうでないかがわかってくる。


もちろん真新しい制服の違いもあるが、一番の違いは、その歩き方だった。


新入生は皆、歩き方が速い。そして緊張のためか肩が上がり気味なのだ。


きっと自分も同じように見えるのだろうな、と思うと凛子はおかしくなった。




校門が見えてくると、この高校へ3年間、通うのだという気持ちが実感として湧いてきた。


凛子は立ち止まって、校門から見える校舎を見つめた。


4階建てのその校舎は、壁の一部が蔦で覆われ、歴史の古さを感じさせる。


広い校庭には、すでにたくさんの生徒たちが歩いていて談笑しながら校舎の中へと入っていく。


凛子は目を閉じると深呼吸した。


だが、その瞬間、ドンと背中に衝撃を感じて思わず、つんのめりそうになった。


「わわっ!」


寸でのところで体勢を整えた凛子は、ぶつかってきた人物を振り返った。


「ちょっと、危ないじゃないの!」


「悪かったよ。でも、ボーっと突っ立ってた、おまえも悪いと思わない?」


同じ制服を着ているのだからここの生徒なのだろう。すらりとした長身に着崩した制服から、2年生か3年生なのだろう。


先輩なら、ここはおとなしくするべき、という考えは凛子の頭の中にはなかった。


「ぶつかっておいて、その言い草はないんじゃないですか!?いくら先輩だからってそういう態度は、褒められたものじゃないと思います!」


きっぱりはっきりと文句を並べた凛子を、その男子生徒は、あっけに取られた顔つきで彼女の顔を見ている。


「先輩・・・?って、俺が?」


「違うんですか?」


その男子生徒は、笑いだした。


「違う違う。俺も1年生。おまえもそうだろ?」


「1年?・・・態度がでかいから先輩だと思った」


率直な凛子の言い方に彼は大声をだして笑った。


「ちょっと!笑いすぎ」


「ごめんごめん。おまえ、名前、なんて言うの?」


「人に名前を聞く時は、自分から名乗るのが礼儀じゃない?」


だが、男子生徒は、大げさに両手を広げると首を左右に振った。


「そんな礼儀なんて、聞いたことないな。まあ、でも・・・」


男子生徒は、ニヤっと笑って屈むと、凛子の落としたバッグを拾い上げた。


「俺は、門倉総一郎。おまえは?」


「・・・渋沢凛子。それより、さっきから『おまえ、おまえ』って馴れ馴れしく呼ばないでよ」


「仕方ないだろ?おまえの名前、さっきまで知らなかったんだからさ」


凛子は、ツンと顎を上げた。


「もう教えたんだから、ちゃんと名前で呼んでよね。門倉くん」


総一郎は、クスっと笑った。


「わかったよ、凛子」


いきなり呼び捨てだ。凛子は、このふてぶてしい男とは、これ以上、関わるまいと決心した。


凛子はバッグをひったくるように総一郎から奪うと走りだした。


「あ、おいっ!」


凛子は顔だけ後ろに向けて叫んだ。


「2度と、呼び捨てなんかしないでよね!」


そうして、あっかんべーと舌までだしてやった。


(なんか・・・初日からついてないなあ・・・)




だが、2度と会いたくないと思った男が、凛子の運命を変えてしまうなどとは知る由もなかった。






無事、入学式が終わると、それぞれの教室へと向かう。


凛子は1−A。1階の一番右端が凛子の教室だ。


クラス分けは入学試験の時の成績順で決められるから、一番上のAクラスということは凛子もそれなりの成績だったということらしい。


(それも、お兄ちゃんのおかげだよね)


元々、成績の方は良い方だったが、この高校を受験するにあたり、樹に毎晩、遅くまで家庭教師をしてもらった。


樹もこの高校の卒業生だった。だから、尚更、凛子は兄と同じこの羽月の台高校に入りたいと思っていた。


念願叶って、憧れの高校に入学できたが、果たして、勉強についていけるかどうか少し心配だった。




教室に入ると、すでに幾人かの生徒たちが黒板に張り出された席順に座っているところだった。


「えっと・・・わたしの席は?」


凛子が視線を彷徨わせていると、突然、にゅっと頭の上から腕が伸びてきて凛子の名前のある場所を指し示した。


「あっ!ここ・・・教えてくれてありがとう・・・」


(え、でもこの学校でわたしの名前を知っている人なんて・・・)


そう思って振り返った瞬間、見覚えある男子生徒がにやっと凛子を見て笑っていた。


「門倉総一郎!」


「おっ、ちゃんと俺の名前、覚えてくれてたんだ?」


「生憎と、物覚えはいい方なので」


この教室にいるということは、同じクラスなのだろう。


なんて、運がないんだろう、と凛子はため息をついた。せっかく、これからの高校生活を楽しもうと意気込んでいたのに、これでは先行きが不安になる。


(なるべく、係わり合いにならないようにしよう)


凛子は、とりあえず礼を言うとさっさと自分の席へと向かった。だが、総一郎も凛子の後を付いてくる。


(なんなのよっ!)


凛子は眦を、キッと上げて振り返った。


「なんで後、ついてくるの!?」


すると総一郎は肩を竦めた。


「おいおい、ちょっと自意識過剰なんじゃない?俺の席は、あんたの右斜め後ろ。さっき席順表、見なかった?」


凛子は唇を噛んだ。


言葉に詰まると唇を噛むのは小さい頃からの癖だった。


それでよく兄から注意されたものだ。




『そんなに噛んだら、凛子のかわいい唇が腫れてしまうよ』




凛子は慌てて下唇を舐めた。


総一郎は、かすかに目を細めて凛子を見つめたが、すぐに元の表情に戻ると先に席へとついた。


「どうした?座れば?」


「言われなくても座るわよ!」


凛子も席に座ると決して総一郎のことは気にすまいとまっすぐ前を見た。




徐々に生徒たちは自分の席へと座り始めていた。前後、隣同士で挨拶を交わす者たちや緊張気味の者たち・・・今は見知らぬ同士だけれど、1ヶ月もすれば、軽口を叩き合う仲にもなれるだろうか。




これから1年間、付き合う仲間たちの中から素敵な友達ができればいい、と凛子は思った。


「なぁ、おまえさ・・・」


不意に髪を引っ張られて凛子は驚いて後ろを振り向いた。


「何っ!?」


「そんな驚いた声、出すなよ。それより、おまえさ・・・どっかで見たことあるような気がするんだけど・・・」


「わたしは、初めて。だって、こんな失礼な人、以前に会ってたら絶対に忘れないもの」


だが、凛子の嫌味にも総一郎は動じなかった。


「ま、俺もさ・・・おまえみたいに気の強い女、一度でも会ったら忘れられそうにないけど」


凛子は、くるっと身を翻すと再び、前を向いた。


「ほんっとに、失礼な奴」
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ