金色のコルダ
□離したくない
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どうして、わたしは、柚木先輩と肩を並べて歩いているのだろう?
あんな忘れられないほどのキスをして・・・その上、手ひどい言葉で傷つけた、この人を許せないと思ったのに。
近づいてはいけないと思っていたのに。
わたしは、わたしがわからない。
頭の隅では、警鐘が鳴り響いていることに気づいているのに・・・わたしは、なぜ・・・。
「痛っ・・・おい、月森、人にぶつかっといて謝罪もなしかよ!」
土浦は、すれ違いざま、体当たりするように走って外へ飛び出していった月森を呼び止めようとしたが、月森は、まったく彼の声が聞こえていない様子だった。
「月森の奴、血相変えて、どこ行くんだ?」
普段は憎らしいくらいに沈着冷静な彼が、いったい何を焦っているのか・・・?
だが、土浦は自分には関係ないことだと言い聞かせると割り当てられた練習室へと戻っていった。
柚木は、距離をとって後を付いてくる香穂子を気にすることなく、前を歩いていった。
まるっきり香穂子のことなど関心がないように。
けれど、木の根っこに足をとられた香穂子が、バランスを崩して転ぶと、柚木は、やっと振り返った。
「まったく・・・ただ普通に歩くこともできないのか?」
ため息をつきながらも柚木は香穂子を抱き起こしてくれた。
「・・・すみません、何度も」
いっそのこと、放っておいてくれればいいのに、と香穂子は思った。
突き放すような言い方をするのに、いざ、香穂子に何かあると、こうして手を差し伸べてくれる。
もちろん、その行動とは、うらはらに口調は手厳しい。だが、それでも錯覚してしまうのだ。
好意をもってくれているのではないか・・・と。
香穂子は柚木の顔を探るようにみつめた。
「・・・俺の邪魔するなら、ついて来るなよ」
(やっぱり、わたしの勘違いなんだ。柚木先輩が時々、優しく見えるのは、ただの気まぐれなんだ・・・)
香穂子は、もう帰ろうと思った。帰って、ヴァイオリンの練習をしなければ・・・そう思って、香穂子が踵を返し、柚木に背を向けると、いきなり手を捉まれた。
「まだ、帰るな。おまえに話がある」
捉まれた手は、離すことを許されないほどに力がこめられている。
「話なんか、別にわたしはありません」
「じゃあ、どうして俺の後をついてきたんだ?」
「それは・・・」
香穂子は俯いた。
理由なんて、なかった。ただ、足が勝手にこちらへと向いてしまっただけだ。
気がついたら、『行く』と口が勝手に答えていただけ。
答えられない香穂子を柚木はそれ以上、問いただそうとはしなかった。
「まあ、いいさ。この先に湖があるらしい。もう少し、付き合え」
柚木は、そう言うと手を掴んだまま再び、歩き出した。
引っ張られるように香穂子は足を踏み出す。足が、またもつれそうだった。
なんとか、柚木の歩調に合わせられるようになると、ようやく柚木は手を放してくれた。
香穂子は、柚木の隣を言葉もなく歩いていく。柚木も、あれから何も話そうとしなかった。
鳥が塒へと帰っていく羽音が聞こえる。もう、夕暮れなのだろう。
まだ、着かないのか、と柚木に訊ねようと柚木の顔を見上げた瞬間、柚木が前方を指さした。
「わぁ・・・」
木々の葉の間から、キラキラと夕陽に輝く湖が見えてきた。
柚木の言葉を疑っていたわけではなかったが、本当に湖があるとは思っていなかった香穂子は目を瞠った。
「綺麗ですね」
「そうだな」
柚木は、目を細めて湖をみつめている。
湖といっても、全景が見渡せるくらいの大きさしかない。向こう岸までも、泳げそうな距離だ。
香穂子は、今、ヴァイオリンを持っていないことを残念に思った。
こんな美しい湖を見ながら弾けば、どんなにか澄んだ音がでるだろう。
「フルートを持ってくればよかったな」
柚木がそう呟いた。
香穂子は、驚いたように柚木をみつめた。
「なんだ?俺の顔になにかついてるのか?」
「いえ・・・ただ、先輩もわたしと同じようなこと考えてたんだなあって不思議に思って」
香穂子が答えると柚木は、一瞬、目を見開いた後、睫を伏せて笑みを浮かべた。
「美しいものには、なるべくたくさん触れるべきだ。美しいものは、心を豊かにし、それは演奏にも、いい影響を与えてくれる。
絵画でも、景色でも、花でも・・・心の底から、美しいと思えるものに出会えば、自ずと感性も磨かれる。
そうすれば、おまえのヴァイオリンも今以上に美しい音を奏でてくれるだろう」
香穂子は、口をぽかんと開けて柚木の言葉を聞いていた。
柚木は、面食らっている香穂子に気づくと、髪をかきあげた。
「おまえが今、考えていること、わかるぜ。どうして、俺がおまえにアドバイスなんてしてくれるんだろう?もしかして、自分を貶める罠かもしれない・・・そんな風に思ってるんじゃないか?」
「そんなこと・・・・思ってません。でも、どうしてですか?どうして、そんなこと教えてくれるんですか?」
ますます柚木のことがわからない。
柚木の本心は、いったいどこにあるのか・・・
柚木は、香穂子から視線を外すと湖面に目を落とした。
かなり透明度があるのだろう。この場所からは、底が見える。
湖の中心に行けば行くほど、深くなって見えなくなるのだろうが。
「・・・おまえ、最後のセレクションでは何を演奏するつもりだ?」
しばらく沈黙が続いた後、柚木が突然、訊ねてきた。
「エストレリータです」
「ポンセか。おまえらしい選曲といえば、いえるかもな」
「・・・先輩は何を?」
柚木は、湖面に落ちた葉が、わずかに揺れているのを、さも重大なことであるかのように見つめている。
答えがないのは、柚木が、答える必要がないのと思っているのではないかと香穂子が諦めかけた時、
柚木が言った。
「ずっと迷っていた。最後のコンクールにふさわしい曲をと考えていた。俺らしくもなく、なかなか決められない」
香穂子は、柚木の口元をみつめた。柚木の口から紡がれる言葉は、毒舌だけじゃない。こんな風に、迷う言葉も、先程のように香穂子に助言する言葉も・・・全てが柚木自身の言葉なのだろう。
「それで・・・決まったんですか?」
柚木は、それには答えずに香穂子に問いかけた。
「おまえ、音楽は楽しいか?」
「はい」
「これからも、続けていくつもりか?」
それは、以前、月森にも聞かれたことだった。月森は、これからも同じ音楽の道を歩いていきたいと香穂子に言ってくれた。
コンクールがどんな結果に終わっても、きっとヴァイオリンはやめないだろう。けれど、月森の言う『同じ音楽の道』を歩む覚悟は、まだつかないでいた。
「ヴァイオリンは・・・やめません」
「なぜだ?」
いつのまにか、柚木は真剣な眼差しを見せていた。
香穂子は、その瞳をまっすぐにみつめて答えた。
「ヴァイオリンが好きだから」
「・・・そうか・・・」
柚木は詰めていた息を大きく吐くと、いつもの表情を取り戻した。
「おまえ、フォーレの子守唄は弾けるよな?」
突然の話の転換に香穂子は戸惑いながらも頷いた。
「なんとか。でも・・・」
柚木は唇の端を上げて笑顔を作った。いつもの香穂子を苛めて楽しむ顔だ。
「今、決めたぜ。最終セレクションの曲は、子守唄にする。おまえも、それにしろ。」
「えっ!?」
いくらなんでも、無茶な話だった。弾けるといっても、2,3度、楽譜を見ながら弾いたことがあるくらいだ。とてもじゃないが、コンクールには間に合いっこなかった。
「無理です!」
「無理じゃない。まだ3日ある。今から、一生懸命、練習するんだな」
香穂子は、柚木の真意がわからず声を荒げた。
「どうして、柚木先輩が勝手に決めるんですか!?わたしは、弾きませんからっ!」
柚木の話とは、やはり香穂子を苛めて楽しむだけのことだった。
それがわかったからには、もうこの場にいる必要はない。
「帰ります」
「逃げるのか?」
嘲るような柚木の言い方に、香穂子は、唇を噛み締めた。
「逃げるもなにも、そんな無茶な話をまともに聞けって方がおかしくないですか?」
「ここらで、はっきりさせようじゃないか。おまえと俺・・・どちらが上か」
「上って・・・わたしは、別に順位なんか気にしません。それに先輩と争う気なんて・・・」
「俺は知りたいんだよ。自分が、おまえよりも、よい評価を得ていると」
柚木は、香穂子の言葉を奪い取るように早口に言った。
香穂子は大きく目を見開いた。柚木は、今、なんと言ったのだろう?
(柚木先輩は、わたしのことを認めてくれてるってこと?)
柚木は、可笑しそうに嗤った。
「俺がおまえの実力を認めたのが不満か?」
香穂子は、ブンブンと首を激しく左右に振った。
「おまえなんて、偶然で評価を得ただけだって、言い続けてほしいわけ?」
「いいえ!そんなこと思ってません!でも・・・どうして?なぜ、今になって、そんなこと・・・」
柚木は笑みを絶やさない。けれど、香穂子には、それが本心を隠すためであるような気がしてならなかった。
「もし、おまえが俺に勝ったら、その時は、今までおまえにしてきたこと、全部、手をついて謝ってやる。どうだ、悪い話じゃないだろ?」
とても正気で言っているとは思えなかった。
香穂子が黙っていると柚木は苛立ったように腕を組んだ。
「もう、おまえが嫌がることもしないし、おまえに近寄りもしない・・・おまえが、勝ったら、な」
(それは、もうわたしとこうやって話もしないっていうこと?)
香穂子は、足を踏み出し、柚木に近づいた。
「なぜですか?どうして急にそんな気になったんですか?」
柚木の顔が強張った。
「・・・どうでもいいだろ、そんなことは」
「どうでもよくないです!ちゃんと、理由を聞かせてください」
香穂子は一歩も譲る気はなかった。今までのように、ごまかされたくはなかった。
柚木は、しばらく香穂子の顔をみつめていたが、やがて観念したように呟いた。
「・・・俺の家は華道の宗家だって、前に話したことあったか?跡は、一番上の兄貴が継ぐんだが、すぐ上の兄貴と俺は家でやっている事業を継がなければならない」
香穂子には、柚木がなぜ、突然、そんな話をしだしたのか、わからずに曖昧に頷いた。
「というわけで、俺の人生は、柚木の家に生れ落ちた瞬間から、決められてるんだよ。すなわち、芸術家としてではなく、事業家であることが義務づけられているんだ・・・この意味、おまえ、わかるか?」
香穂子は、首を横に振った。
柚木は苦笑すると、湖の対岸をみつめた。
「このコンクールが終わったら、俺は本格的に受験の体制に移る。音楽は、高校の3年間で終わり。大学は、経済か商科ってとこだろうな」
柚木は、まるで人事のように言ってのけた。
「・・・嘘」
信じられないというように香穂子が言うと、柚木は、切なげに目を細めて微笑した。
「嘘じゃない」
「どうしてですか!?そんなに上手なのに!」
「上手・・・確かに、人並み以上の実力はあると自分でも思っている。でもね、日野・・・俺くらい吹ける人間なんて、掃いて捨てるほどいるんだぜ?」
柚木は続けた。
「だから、最後におまえに勝って、すっきりと音楽をやめようと思ったんだ」
香穂子は呆然と呟いた。
「どうして・・・?」
「さっきから、おまえは、そればかりだな。どうして、どうして・・・他に何も言えないのか?」
「だって!もったいないです!柚木先輩、フルート好きなんでしょう?音楽が好きなんでしょう?だったら、やめる必要ないじゃないですか!」
柚木は、ため息をついた。
「わかってないね。音楽は、そんなに甘いものじゃないって、前に言ったの覚えてないのか?」
香穂子は、ギュっと拳を握りしめて俯いている。
柚木には、なぜ、香穂子がそれほどまで、自分を音楽に引き留めたいのかがわからなかった。
頬に冷たい風を感じると、柚木は香穂子に言った。
「俺の話は、これで終わりだ。最終セレクション、楽しみにしてるぜ」
柚木は、俯いたまま身動ぎしない香穂子の答えを待ったが、何も言ってこないので、
仕方なくこの場を去ろうとした。
「待ってください!」
「・・・なんだ?」
柚木は、首だけ香穂子に向けた。
「もし、わたしが柚木先輩に勝ったら、音楽をやめないって、ここで約束してくれませんか?」