金色のコルダ

□剥がれかけた仮面
1ページ/3ページ


「梓馬さん・・・梓馬さん!」


柚木は、何度目かの呼びかけにようやく気づいた。


「はい、なんでしょうか、おばあさま」


柚木の祖母は、大仰にため息をついてみせた。


「今日の梓馬さんは、随分と上の空ですね。何か、気にかかることでも?」



柚木は咄嗟に笑顔をはりつけた。


「いいえ。何もありません。おばあさまが心配なさるようなことは・・・何も」


祖母は、何か言いたそうに口を開きかけたが結局、それ以上、追求するこはなかった。


「今日は、もう結構ですよ」


「はい。ありがとうごいました」


柚木は花器の横に鋏を置くと静かに一礼して立ち上がった。


障子を開け、立ち去ろうとする柚木の背中に祖母が言った。


「梓馬さん、明日、忘れてはいないでしょうね?」


「・・・はい、もちろんです、おばあさま」


柚木は、にっこりと微笑むと音も立てずに障子を閉めた。






自室に戻ると柚木の表情から笑みが消えた。


後ろ手でドアを閉めると、そのままドアに寄りかかったまま大きく息を吐いた。


今日ほど、仮面を被るのに苦労した日はなかった。


あの祖母の前で上の空になるなどあってはならないことだというのに。



誰にも気づかれてはならない本当の自分。


誰にも弱味を見せたくない。弱味を見せるということは、その相手を信用するということだ。


少なくとも、柚木はそう思い、今の今まで実行してきたつもりだ。


今さら、それを変更することなどできはしない。




柚木は椅子を引くと机の上に両肘をつくと、こめかみを押さえた。





まさか、こうなるとは予想もしていなかった。


昨日、月森に思わせぶりなことを言ったのは、柚木の牽制だった。


ああ言っておけば、これ以上、香穂子に手を出す気にはならないだろうと踏んだのだ。


あのプライドの高い彼が、自分以外の男を好きだと知れば、もう踏み込んでくるはずはないと確信していた。


望みのない賭けに出るほど月森が恋に情熱を傾けるとは思えなかったから。



けれど、計算が狂った。


月森が、行動を起こすなどとは、誰が想像しただろう?


それに香穂子が月森の好意を受けることはないだろう、と高を括っていたのだ。


柚木は、自嘲気味に嗤った。


彼らは柚木の知らない間に、心を通わせていたということだ。


(それならそれで、勝手にすればいいさ)


けれど、どうしても香穂子が見せた涙が柚木の頭から離れてくれない。


あの涙には、どんな意味があるのか?


そして、柚木自身、すっかり忘れ果てていたハンカチを今頃、返す気になった香穂子の気持ちが、わからない。


わからないことが多すぎる。


そして、それは自分自身の心も含まれていた。


柚木は、返されたハンカチをヒラヒラと振ってみた。


丁寧にかけられたアイロンの跡がくっきりと残っている。


柚木は、くしゃっとハンカチを握り締めると丸めて屑篭へ放り込んだ。







「梓馬さん、こちらが先日、お話していた私の古くからの友人のお孫さんの石田紫さんですのよ」


「初めまして、梓馬さま。梓馬さまのことは、柚木のおばあさまから、よく伺っていましたのよ。

大変、優秀でいらっしゃるんですってね?」


柚木は、口元に笑みを浮かべて応えた。


「いいえ、ボクなど、上の兄たちには、到底、叶いません。

祖母は、きっと、あなたに、いい印象を持ってもらいたくて、そんなことを言ったのだと思います」


「梓馬さん」


穏やかだが、口答えを許さぬ口調で柚木の祖母は柚木に言った。


それ以上、余計なことは言うな、ということだろう。


柚木は、わずかに俯いた。


俯くと長い髪が頬にかかって表情が隠れる。


柚木は祖母に気づかれぬよう口元をゆがめて嗤った。


(どうせ、茶番だ)


祖母は、こうして、もう何度も、柚木と祖母のお眼鏡に叶った女性を引き合わせていた。


「紫さんは、ヴァイオリンがお上手だそうよ。あとで、合奏でもなさるとよろしいのじゃないかしら?」


「・・・そうですね。喜んで」


「まあ、本当ですの?確か、梓馬さまは、フルートがお上手だと聞きました。

聞くところによると、学内のコンクールにも選ばれたほどの腕前とか」


紫は、目を輝かせた。


どうやら悪い女性ではないらしい。


だが、ただ、それだけだ。


到底、柚木の心を揺り動かすことなどできない。


今までも、そして、これからも。




どうせ、結婚相手など自分で選ぶことはできないのだから。




だが、それを悲しいとも思わなかった。


むしろ、それは当然のこと。柚木の家に生まれた瞬間から、決められていた人生。




思い通りに生きることは、できない。




紫も、柚木の家の・・・いや、祖母のために有益な家の娘なのだろう。



祖母は、いかに柚木の家を大きくすることしか考えていない人だ。



もし、祖母が紫を気に入れば、この話は、さっさと進んでいくに違いない。




「では、梓馬さん、紫さんを部屋へ案内してあげなさい」


「はい・・・おばあさま」






グランドピアノが置いてある、普段、柚木がレッスンをしている部屋へ入ると、

紫は、早々にヴァイオリンケースからヴァイオリンを取り出した。


「あの・・・曲は何を?」


柚木は、即座に答えた。


「序奏とロンド・カプリチオーソは、弾けますか?」


紫は事も無げに応えた。


「サン=サーンスですね。はい、一応は」


「それでは、それを」






紫は、確かに巧かった。


趣味の域を脱しているくらいに。


けれど、まったく噛みあわない。


音が、ではなく、心に響いてこないのだ。


紫の音は、ただの音符の羅列にしか柚木には聴こえなかった。


音色は、右の耳から左の耳へと、通り過ぎていくだけで何の感情もこの曲からは読み取れなかった。


柚木の耳には、いつしか紫のヴァイオリンではなく、別の音色が聴こえていた。


伸びやかなのに、繊細であたたかな・・・心が震えるような優しい音色。


目を閉じてフルートを吹いていると、目蓋の裏に焼きついた残像が現れた。


柚木は、ぎょっとして、目を見開いた。


(どうして、おまえが!?)


同時に、手元が狂い、ヴァイオリンに遅れた。


柚木は、吹くのを止めた。


「すみません。どうやら、あなたの技術に僕が合わせられませんでした」


紫は、慌てた。


「いえ!そんなことはないです。梓馬さまのフルートは、とても美しくて・・・

あの、私の方こそ、巧く弾けずにご迷惑をおかけしたのでは?」



柚木は、相手を安心させるように微笑んだ。


「いいえ。あなたのヴァイオイリンは、とても素晴らしかったですよ。

僕のフルートでは、もったいないくらいでした」


柚木は、さっさとフルートをケースにしまうと、ドアを開けた。


「僕は、用事があるのでこれで失礼しますが・・・ごゆっくり」


「えっ、あの!?」


柚木は、これ以上はないくらいに慇懃無礼に挨拶をすると、足早にその場を離れて行った。


(どうしたっていうんだ!?)







香穂子は、部屋中に服を散らかして、今日、着て行く服を選んでいた。



月森から昨日、誘われたのだ。


ふたりで、どこかへ行こう、と。


月森と一緒に出かけるのは初めてではないが、お互いの気持ちを確かめ合ってからは初めてということになる。


「これって、デートだよね?」


香穂子は、鏡の中の自分に問いかけた。


待ち合わせは、午後2時。


もうそろそろ出かけないと間に合わなくなる。


香穂子は、結局、最初に着てみた服にすることにした。


グレーのスカートにピンク色のカットソー。


ちらっと、パンツにした方がいいのかも、と考えたが、

やはり少しでも女の子らしいところを見てもらいたいと考えた。






「間に合うかなっ!?」


香穂子は、急いで待ち合わせ場所へと向かった。


だが、慌てるとろくなことはない。


靴の踵が溝に嵌って抜けなくなってしまったのだ。


「もう〜イヤ!なんで、こういう時に限って・・・」


香穂子は、靴を脱ぎ、両手で靴を引っ張ったが、なかなか取れない。



「困ったなあ・・・」


すると、携帯の着信音が鳴りだした。


もう時間を過ぎている。


きっと月森からだろうと、確かめずに携帯を耳にあてた。


『俺だ。今、どこにいる?』
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ