金色のコルダ

□とまどうこころ
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明日は、第3セレクションの日だ。


香穂子は、今にも雨が降り出しそうな空を見上げた。


「困ったなあ。傘、持ってきてないし・・・」


別に濡れるのは、構わないのだが・・・・。


香穂子は、ヴァイオリンケースをしっかりと抱きしめた。




「えーい、走っちゃえ!」


香穂子は、昇降口から飛び出した。




「日野!」


もう少しで正門を抜けるというところで、月森に呼び止められた。



「あ、月森くん。今日は、練習、終わり?」


「あぁ。セレクション前日は、指をならす程度にしておこうと思って」



月森は、大事そうに香穂子が抱えているヴァイオリンに視線を移すと、微笑を浮かべた。


香穂子が、いかに、そのヴァイオリンを大切にしているのかがわかる。



いつの頃からか、香穂子は、まるで宝物のようにヴァイオリンを扱うようになっていた。


それを、同じヴァイオリン奏者として、月森は嬉しく感じた。


「明日の君の演奏・・・・・とても楽しみにしている」


香穂子は、ここ数日で、格段に上達していた。


今まで以上に、強力なライバルになることだろう。


だが、月森は、それを嬉しく思っていた。


香穂子が、より良い演奏をすることで、自分もまた、

より高みへと昇っていける気がしていたからだ。




「わたしも・・・・・わたしも、月森くんのヴァイオリン、楽しみ!」



顔を輝かせてそう言った香穂子が、なんだか、とても眩しくて月森は目を細めた。




「あ、雨?」


手の平に雨がぽつりとあたった。


ついに降り出してしまった。


「どうしよう、ヴァイオリンが濡れちゃう!」


香穂子の心配そうな声を聞くと、月森は香穂子の腕を掴んだ。


「こっちだ、急ごう」


「あ、えっ・・・・月森くん!」


香穂子は、月森に引っ張られるようにして走り出した。







「ヴァイオリンは、大丈夫か?」


「うん。ちょっと濡れたけど、たぶん平気」


香穂子は、ハンカチを取り出すと、丁寧にケースを拭いた。


「済まなかった。俺が、引きとめたせいで、雨に・・・・」


「ううん。どっちにしても、家に帰る前に降り出してきたと思うし。

そしたら、もっとずぶ濡れになっちゃってたから、返ってよかった」



月森と香穂子は、結局、また校舎内に戻ってきてしまっていた。


ちょうど、空いていた練習室があったので、月森が借りたのだ。


「当分、止まなそうだね」


香穂子は、窓に近づくと、激しく叩きつけるように降る雨をみつめた。



遠くで雷鳴の轟く音が聞こえてきた。


「雨が止むまで、練習しないか?」


月森は、ヴァイオリンを取り出した。


こんな雨の日は、ヴァイオリンの音色も、湿りがちになる。


明日は、晴れるといい、と思いながら、月森は窓際に立つ香穂子に視線を向けた。




髪が・・・・




香穂子は、ヴァイオリンばかり心配して、自分が濡れていることになど気づいていない。


「日野、濡れている」


「えっ?」


月森は、香穂子の傍に行くとハンカチを差し出した。


「あ、ありがと。気づかなかった。って、月森くんも濡れてるよ!」



香穂子は、月森のハンカチで月森の髪を拭こうとして、背が届かないことに気づいた。


「月森くん、少し屈んでくれる?」


「いや、・・・日野、自分でその・・・・」


月森は、焦った。


「ほらほら、早くしなきゃ風邪ひいちゃう!」


香穂子の剣幕に押されて月森は、仕方なく背を屈めた。


香穂子の腕が月森の頭に伸びる。


あっという間に、距離が縮まって、ふわっと香りが月森の鼻孔をくすぐった。


(君だって、濡れたままじゃ・・・・)


そう言おうとして、月森は、ドキっとした。


香穂子の濡れた髪から、ぽたっと滴が垂れ、月森の制服のブレザーに染みをつくった。


髪が、月森の頬をくすぐる。


雨に濡れて、風邪をひいたのだろうか?


頬が熱い。


香穂子が丁寧に月森の髪を優しく撫でるように拭く、その感じが、心地いい。


けれど、心地良さと同時に、居心地が悪い。


それがなぜなのか、わからないまま月森は、甘い香りと窮屈な格好に耐えた。




「はい、終わり」


「あ・・・ありがとう」


「ふふっ、なんか、月森くんにお礼言われるなんて、最初の頃、思い出すと考えられないなぁ」


香穂子は、今度は、自分の髪を拭きながらくすくす笑った。


「そんなに、俺の態度は、悪かっただろうか?」


月森にその自覚はない。


「態度が悪いっていうかね、他人とあんまり関わりたくないように見えたから。

覚えてない?わたしにお説教したじゃない。あの時、なんて嫌な奴!って思ったんだから」


月森は、きまり悪そうに、俯いた。


「・・・・・悪かった。別にそんなつもりはないんだが、つい、きつい口調になっているらしい。

あまり人と話すのがうまくなくて・・・・君には不愉快な思いをさせてしまった」


香穂子は、あまりにも月森が意気消沈してしまったので、慌ててフォローした。


「ううん、そうじゃなくって!

わたしが言いたいのはね、月森くんと、こうやって話せるようになって嬉しいってことなの」


「・・・・・えっ?」


香穂子は、赤くなり照れ隠しのために急いで言った。


「ううん、なんでもない。それより、練習しない?雨が止むまで」



本当のところ、月森がどう思ったのか確かめたいような気もした。



だが、思ってもみなかったことを言われてしまったというような月森の顔を見ると勇気がでなかった。


香穂子は、今、言ったことを月森が早く忘れ去ってしまうようにと、

さっさとヴァイオリンを取り出し調弦を始めた。


「日野・・・・・」


香穂子は、月森の表情に気づかずに、ヴァイオリンを弾きだした。



「あ、別にね、深い意味はないの。だから、そんなに気にし・・・・」



瞬間、パシーンと音を立てて、ヴァイオリンの弦が切れた。


「う、嘘!?」


初めに、E線が、続いてA線、D線と4本のうち3本が、切れた。



「日野!大丈夫か!?」


月森は香穂子からヴァイオリンを取り上げると、

すぐさま指が切れていないかどうか確かめた。


「つ、月森くん・・・・ヴァイオリン・・・・わたしのヴァイオリンが・・・・」


「指に怪我はないようだ。良かった」


月森は、安堵のため息をついた。


「どうしよう・・・第3セレクションは、明日なのに・・・」


香穂子は、半ば、パニック状態で、今にも泣き出してしまいそうだった。



「日野、予備のヴァイオリンは?」


「持ってないの。わたし、これしか・・・・これじゃないとダメなの!」



香穂子は、この魔法のヴァイオリンでしか弾いたこともないし、

これ以外で弾けるはずがないと思っていた。


「もうダメ。コンクールには、出れないよ!」


「日野、落ち着くんだ。ヴァイオリンなら、俺のを使えばいい」


月森がそう言っても、香穂子は、首を横に振り続けるだけだった。



「月森くんは、何も知らないから・・・・・」


香穂子にとって、このヴァイオリンは、魔法のヴァイオリンというだけでなく、

香穂子が初めて手にして、初めて音をくれた何よりも大切なものだった。



香穂子は、壊れてしまったヴァイオリンを胸に抱えると、ぽろぽろと涙を零した。


月森は、どう慰めたらいいかわからず途方に暮れた。


こんな時、どう言えば、香穂子の悲しみを少しでも取り除いてやれるのかわからなかった。


言葉がでてこないもどかしさ。


月森は、言葉の代わりに香穂子をヴァイオリンごと抱きしめた。


「つ、月森くん!?」


「俺は、泣いている君に何を言ったらいいのか、わからないから・・・・」


香穂子は、どうしたらいいかわからず戸惑っていたが、やがて月森の胸に体を預けた。


月森の体は、思っていたよりも暖かくて心地よかった。


「ごめんね。少しだけ、泣いてもいい?」


「あぁ・・・・気が済むまで泣くといい」


月森が言うと、香穂子は、声を殺して小さく震えながら泣いた。


「今まで、ありがとう。わたしの初めてのヴァイオリン」


背中にまわした手にわずかに力がこめられた。




月森は、そうして、ずっと・・・・・香穂子が泣き止むまで傍にいてくれた。






雨は、いつのまにか止んでいた。




月森は、音楽棟の出口まで香穂子を送った。


せめて、家の途中まで送りたかったのだが、香穂子は、ひとりになりたいようだった。


香穂子は、繋がれた月森の手から、そっと手をはずした。


「本当にここでいいのか?」


「うん。今日はありがとう」


香穂子は、いまだ目元が赤いままで月森に礼を言うと、足早に月森の前から去って行った。


急に月森の周りの温度が下がったような気がした。


もう少し、手を握っていたかった。


月森は、今まで手の中にあった、香穂子のぬくもりを確かめるように手を握り締めた。










香穂子は、大きなため息をついて立ち止まった。


本当にどうしたらいいのだろう?


ヴァイオリンがなくては、セレクションには出られない。


しかし、正門前に近づくと、どこからともなくリリが香穂子の目の前に現れた。



「日野香穂子、ヴァイオリンを我輩に見せてくれ」


「あ、リリ・・・・・ヴァイオリン、壊れちゃった。どうしたらいいの?

もう治らない!?わたし、それがないと・・・・・」


だが、リリは力なく首を左右に振った。


「その魔法のヴァイオリンは、役目を終えたのだ。だから壊れてしまったのだ」


「そんな!だって、まだセレクションは半分もあるのに!」


すると、リリは新しいヴァイオリンを香穂子に手渡した。


「これは?」


「それは、普通のヴァイオリンだ」


香穂子は、驚いた。


「え・・・・でも、わたしは、魔法のヴァイオリンじゃなくっちゃ・・・」


「日野香穂子、おまえは、もう魔法のヴァイオリンがなくても立派に弾けるはずなのだ。

ちょっと、それを弾いてみるのだ」


香穂子は、恐る恐る、ヴァイオリンを構えると弓を滑らした。


ギギギーッと嫌な音がした。


「やっぱり、弾けないよ」


肩からヴァイオリンを下ろすと、リリが言った。


「自分を信じるのだ!目を閉じて、ゆっくり深呼吸して、イメージするのだ。

必ず、おまえは、弾ける。

さっき、我輩は言っただろ?

そのヴァイオリンは、おまえがおまえの力で弾けるようになったから、役目を終えたのだ」


香穂子は、リリの言うとおりにやってみた。


目を閉じて、今まで弾いてきたように弓を動かしてみた。


すると、柔らかな音色が、響いた。


「わたし、弾ける?」


リリは、パチパチと拍手をしてくれた。


「その調子だ、日野香穂子!おまえなら、大丈夫だ!」


香穂子は、改めて新しいヴァイオリンをみつめた。


美しい光沢のあるヴァイオリンだった。


「これからは、そのヴァイオリンと共に、おまえなりの音を造っていくのだ」


「わたしなりの音?」


「そうだ。それが、魔法のヴァイオリンのためでもあるのだ」


リリは、壊れたヴァイオリンを香穂子の目の前に差し出した。


「お別れだ。何か、一言、言ってやってくれ」


香穂子は、潤んだ瞳でヴァイオリンをみつめた。


そっと撫でると、壊れたというのに、わずかに音が聴こえた気がした。



「ありがとう。あなたのおかげで、わたしヴァイオリンが大好きになれた。

これから、わたし、あなたに恥じないように、もっともっと頑張るから・・・見ていてね」


すると、ヴァイオリンから透き通った音色が聴こえてきた。


まるで、香穂子に最後の挨拶をしているかのようだ。


「ご苦労だったな、おまえ。もう、安心していいぞ?」


リリが、言うと、ヴァイオリンは跡形もなく消え去った。






「う〜む・・・・セレクション前日に壊れるとは、予想外であったが、

おまえなら、やれる!日野香穂子。明日の第3セレクションでは、

魔法のヴァイオリンのためにも、必ず1位を狙うのだぁ〜!」
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