金色のコルダ

□口唇
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柚木は香穂子の肩を抱いたまま、無言で歩き続けている。


柚木の言う、「大事な話」とは、いったいなんなのか気になった。



ちらっと柚木の横顔を盗み見ると、視線が合った。


にこっと微笑まれて、香穂子は目を逸らした。


柚木が何を考えているのか、さっぱりわからなかった。


先程、香穂子の演奏を褒めたのも、本心なのか、それとも偽りなのか・・・。




でも、今は、柚木が何を考えているかなんて、どうでも良かった。


香穂子は、首を動かし後ろを振り返った。


すでに月森の姿は見えない。


月森は、自分が心をこめて奏でた音色を好きだと言ってくれた。


嬉しかった。


月森に認めてもらえたことが、とても香穂子には嬉しかったのだ。



(一緒に合奏したかったな・・・・)


知らず、ため息が漏れる。


すると、肩に置かれた柚木の手が、すっと離れた。


「そろそろいいか」


「?」


柚木は、面食らった香穂子の顔を見ると、くすくすと笑った。


「なんて、顔してるんだい?」


笑われて香穂子は、ムっとした。


「大事な話ってなんですか!?」


香穂子は尖った口調で訊ねた。


「おやおや、何をそんなに怒ってるのかな?」


「だって!」


「もしかして、急に僕が君から手を放したから?」


「バッ!そんなわけないじゃないですか!いいから、用件を早く言って下さい。

わたし、まだ練習しなくちゃいけないんですからっ」


そうだ。柚木なんかに、かかずらっている暇などない。


今までの分を取り戻さなければ・・・・・第3セレクションまで、日がなかった。


「日野さん、今、『バカ』って言おうとしなかった?」


柚木は、誰もが騙されてしまうだろう微笑を浮かべて言った。


(まずい・・・・・)


「いえ、きっと空耳ですよ」


「そうだよね。この僕に向かって、『バカ』だなんて君が言うはずないよね」


香穂子は、柚木の言葉のひとつひとつに裏がありそうで、身構えた。


言葉は丁寧だが、まるで針で、ちくちくと刺されているような感じだ。


「そんなに警戒しなくても、僕は何もしないよ、日野さん?」


柚木は、一歩、香穂子に近づいた。


思わず、香穂子は後ずさった。


だが、すぐに香穂子の背は壁に突き当たった。


柚木の右腕が香穂子の顔のすぐ横に伸び、香穂子の身長に合わせるように身を屈めた。


そうすると、柚木の端整な顔が、すぐ間近に来て、香穂子は目を見開いた。


(きっと、また、おろおろしてるわたしのこと、笑ってるんだ!)



香穂子は、負けまいと両足を踏ん張った。


「そんな喋り方しても、騙されませんから」


香穂子の言葉に、柚木は一瞬、目を見開き、そして、声をあげて笑った。



「やっぱり、おまえは、おもしろいね」


柚木は、香穂子から離れた。


香穂子は、内心の動揺を悟られまいと手をぎゅっと握り締めた。


「からかって遊んでいるだけで、用がないのなら、失礼します!」



香穂子はヴァイオリンケースを抱えると足早にその場を去ろうとした。



だが、慌てて、小石につまずいてしまった。


「キャッ!」


香穂子は、咄嗟にヴァイオリンを庇ってバランスを崩しかけた。


「危ないっ!」


目を瞑った瞬間、柚木に抱きとめられた。


なんとか、ヴァイオリンを落とさずに済んでよかったと、胸を撫で下ろした途端、

香穂子は慌てて柚木から離れようとした。


「あ・・・・ありがとうございましたっ!」


「怪我はしてないだろうな?」


柚木は咄嗟に香穂子の手を確かめた。


柚木の声音は、香穂子を心配しているように聞こえた。


香穂子は、思わず、柚木を見上げた。


(本当に、心配してくれている!?)


まさか、と思い直したが、とりあえず礼を言わなければと思った。


「は、はい。大丈夫です。ヴァイオリンも、先輩のおかげで、無事でした」


本当に危ないところだった。


ヴァイオリンに傷をつけたりしたら、大変だ。


香穂子は、ヴァイオリンケースを抱きかかえ、頬ずりした。


「よかった〜落とさなくて・・・・」






不覚だった。


咄嗟に手がでてしまった。


香穂子などを助ける必要はなかったのに・・・・・。


愛おしそうにヴァイオリンを抱える香穂子を柚木は、じっとみつめていた。


いつのまに、これほどまでにヴァイオリンに魅せられてしまったのか。



ほとんど素人のはずだった香穂子にとって、ヴァイオリンなど、

セレクションを乗り切るための道具に過ぎなかったはずだ。


2,3日前までは確かに、悩んでいた香穂子の演奏が、

突然、今日、変わったのは、なぜか?


(そんなもの・・・・・さっきの彼を見れば、すぐにわかる)


香穂子は、『また、海を見に行こう』と言っていた。


きっと、この週末にでもふたりで行ったのだろう。


(そして、何らかの変化があって、おまえの音が変わった・・・・・ってことか)


愉快じゃない・・・・・・いや、はっきりいって不愉快だ。気に入らない。


あのまま、香穂子が潰れてしまえば、いいと思ってた柚木は、

余計なことをした月森に腹立たしさを覚えた。


悩んで悩んで、香穂子が音楽をやめてしまえばよかったのに。


そうすれば、柚木もこれ以上、気分をかき乱されることもなかったのに。




(まったく、余計なことをしてくれたもんだ)




柚木の口調が変わった。


「感謝される覚えはないね。おまえにとっては、

今、これが壊れた方がよかったんじゃないか?」


「そんな!」


「だって、そうだろ?ヴァイオリンが壊れれば、おまえは、2度とセレクションに出られなくなる。

俺が、辞退しろと言わなくても辞退せざるを得なくなるだろ?」


香穂子は、耳を疑った。


そんなこと、柚木が本気で言っているなんて思えない。


「柚木先輩は楽器が大事じゃないんですか!?」


香穂子は、ますます、しっかりとヴァイオリンケースを抱きしめた。



「わたしが辞退することと、楽器が壊れることは、別です。

いくら先輩でも、壊れればいい、なんて・・・・許せません!」


「へぇ〜そんなに、それが大事か?そうだな、その魔法のヴァイオリン以外じゃ、

おまえは、簡単な曲でさえ、満足に弾けはしないだろうからな」


柚木は目を眇めた。


香穂子以外には見せることはない柚木の素顔が現れた。



「そりゃ、大事にするよな?じゃあ、俺は、おまえの大事なヴァイオリンを守ってやった恩人てわけだ」


今まで、強気な姿勢を見せていた香穂子が、怯えたように柚木を見ている。


魔法のヴァイオリンの秘密を知っているのは柚木だけだ。


ばらされたら困るとでも思っているに違いない。


だが、自分が怯えさせているというのに、柚木は苛立った。



(あいつの前じゃ、そんな顔しないだろ?)


柚木の脳裏に月森と香穂子が微笑みあっている姿が浮かんだ。


(俺の知らないところで、何があったんだ?)


この感情を、人は『嫉妬』と呼ぶのだろう。


だが、柚木は、否定した。


決して、嫉妬ではない。


ただ、自分以外の男に心を開く香穂子が許せないだけだ。


そう思うこと自体が『嫉妬している』ということに柚木は気づいていなかった。



「俺がいなきゃ、おまえは、転んでいた。そうだよな?」


「はい。でも・・・・」


柚木は香穂子を壁際に追い詰めた。


逃げられないように、香穂子の顔の横に両腕をついた。


そこまでされても、香穂子は、決してヴァイオリンを放そうとしなかった。


柚木は、ヴァイオリンケースに視線を向けた。


しっかりと抱きかかえたヴァイオリンケースが、ある人間を連想させた。



柚木は一度は、自分の手で守った『それ』を香穂子の手から奪い取ってやろうと思った。



柚木の長い指が香穂子の顎を捉えた。


香穂子の瞳が、大きく見開かれ、その瞳に柚木の顔が映っていた。



柚木が顔を近づけると香穂子の瞳の中の自分が消えた。


口唇が、香穂子のそれに重なった瞬間、香穂子の手からヴァイオリンケースが地面の上に転がった。


ここは、人が少ないから考え事をするのに最適だった。


案の定、月森以外、誰も屋上にはいなかった。


扉を開け、足を一歩踏み出すとちょうど西にある太陽の光が月森の目を細めさせた。


月森は、あまりの眩しさに手をかざして光を遮った。


屋上の自分の定位置のベンチに腰を下ろすと、ヴァイオリンを取り出した。


調弦をし、弓を構えたが、月森は首を振って弓を下ろした。


今は、ヴァイオリンを弾く気になれなかった。


こんなこと、月森には珍しいことだった。


どんなことがあっても、ヴァイオリンを弾くことは月森の中で一番、大切なことだったのだから。




なぜ、香穂子を引き止められなかったのだろう?


本当は行かせたくなかったのに。


もっと、彼女のヴァイオリンを聴いていたかった。


そして、共に演奏し、音色を共鳴させたかった。


それなのに、香穂子への想いを自覚した瞬間、柚木にさらわれてしまった。


まるで、その瞬間を計っていたかのように。




柚木は、月森の気持ちを知っているのだ。


だから・・・・・・。




『残念だけど、君には、あげないよ』




香穂子は、きっとその言葉の意味に気づいていないだろう。


香穂子は、月森の気持ちを知らないのだから。


(柚木先輩も、日野のことを?)


そう思ったが、月森は即座に否定した。


確かに、柚木は香穂子に親切だったが、決して、それは後輩に接する以外の何物でもなかったはず。


柚木は、誰にでも優しく振舞っていた。


香穂子に対して、特別な感情があるようには思えない。


(それでは、なぜ?)


もしかして、自分が気づいていないだけで、やっぱり柚木も香穂子に惹かれているのだろうか・・・。


いや、惹かれているのだとしたら、『あげない』などと言うだろうか?



香穂子は、物ではない。普通なら、『渡さない』と言うべきだ。


少なくとも、自分なら、そう言う。




月森は立ち上がり屋上を後にした。
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