金色のコルダ

□Prelude1
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どうせ、何もできはしない。

そう、思っていた。

だから、優しくしてやった。

なぜって?

理由は簡単だ。

実力のないものに真剣に相手をしてやる必要がどこにある?

きっと、すぐに逃げ出すに違いない。

その時は、いつものようにこの上なく優しい先輩として慰めてやろう。


そう思っていた。


今日までは・・・・・。






「これを、わたしに?」


日野香穂子は嬉しそうに瞳を輝かせた。


「君なら、弾きこなせると思って。次のセレクションで弾いてみたらどうかな?」


柚木は、にこやかに微笑んだ。

2人を遠巻きに見ている女子生徒達から、嫉妬と憧れの両方が入り混じった視線を浴びている。

柚木といると少なからず、こういう場面にさらされる。

だから、柚木が親切にしてくれることが嬉しい反面、居心地の悪さも感じる。

それでなくとも、普通科からのコンクール参加者ということで肩身の狭い思いをしているのだ。

香穂子は、もらった楽譜をたいして、見ずに閉じてしまうと、

柚木にお礼を言い、足早にその場を立ち去ろうとした。


「待って。日野さん」


「なんでしょうか?」


「君のヴァイオリン・・・・」


「これ・・・ですか?」


香穂子が一瞬、瞳を揺らした。


「いや・・・・なんでもないよ」


柚木は『気にしないで』、と言い残して去って行った。

香穂子は柚木の言いかけた言葉がひどく気になったが、

気にしても仕方ないと思い直して、いつもの練習場所へと向かった。






屋上への階段を一気に駆け上って、最後の一段で立ち止まった。

息を整えて、逸る心を抑えて、期待を込めて、重い扉を開けた。


『彼』はいるだろうか?


香穂子は屋上を見渡した。


だが、視界の内には入らなかった。


「今日は、はずれ?」


香穂子は、がっかりしてベンチに座った。

そして、改めて柚木のくれた楽譜を見てみた。


「なに、これ!?」


その曲は、重音やら、装飾音やら、連続するトリルなど、相当なテクニックが必要で、

今の香穂子には、とてもではないが弾きこなせるはずがなかった。


「無理だよ。逆立ちしても無理!」


(その上、なに?タルティーニって誰?知らないなあ)


「なになに・・・・ソナタ第4番ト短調・・・?」


香穂子が頭を抱えていると、楽譜に影が落ちた。


「Trillo del Divavolo 悪魔のトリルだ。確かに、君の実力では弾けないだろうな」


(この声は・・・)


香穂子は、パッと顔をあげた。


「月森くん!」


立ち上がった拍子に膝から楽譜が滑り落ちた。


「あっ」


拾おうとすると月森が腰を屈めて拾ってくれた。

だが、香穂子には渡さずに、じっと楽譜に見入っている。


「この曲は・・・・・まさか、次のセレクションで弾くつもりなのか?」


月森は顔をあげると、香穂子をまっすぐにみつめた。


「えーと・・・無理・・・・だよね?」


香穂子は、あはは、と笑ってみたが、月森は笑わなかった。


「それでは、なぜ、君がこれを?」


「あ、これ・・・柚木先輩がね。次のセレクションにどうか、って」


月森は眉をひそめた。


(柚木先輩が、どうして日野に?)


柚木の真意がわからなかった。


素人にでさえ、一目、この楽譜を見れば、難解さがわかる。

ましてや、柚木がわからないわけはない。

香穂子には、弾けないということが。


「これは、俺でも難しい」


「そうなの?」


「そうだ」


月森はヴァイオリンをかまえると、弾き始めた。


(うわ〜っ!すごい!指が、めちゃめちゃ早く動いてる!)


これは、いくら魔法のヴァイオリンといえども、弾くことは困難である。


月森は、自分には難しい、と言ったくせに、香穂子には、いとも簡単に弾いているように見えた。


(やっぱり、月森くんは天才なんだなあ・・・・)


月森が弾き終えると、香穂子は、パチパチと拍手をした。


「すごい上手だったよ!」


だが、月森は首を振った。


「いや・・・・こんなの弾けるうちにはいらない。

ここの、主音と2度上の音を交互に弾くところ。まだまだだ。
もっと速く弾けなければならない」


「ふ〜ん・・・・それでも、わたしからみたら、完璧に聴こえるんだけどなあ」


「・・・・・・・」


香穂子は楽譜をペラペラとめくって、ため息をついた。


「これを弾けるようになるには、どのくらい練習すればいいんだろう」


魔法のヴァイオリンがあれば、『弾く』ことは可能だろう。

けれど、先ほどの月森の演奏のように、美しい旋律を響かせるようになるには、

気が遠くなるほどの年月を費やしても無理なように思えた。


「でも、『悪魔』って感じじゃないよね。すごく綺麗な曲」


月森は、ヴァイオリンを肩から下ろした。


「タルティーニが夢の中で悪魔がヴァイオリンを弾くのを聞いて、

目を覚ますと、夢の中で聞いたばかりのその曲を書き上げた。

だから、『悪魔のトリル』というタイトルなんだ」


「へぇ〜月森くん、物知りなんだね」


香穂子がそう言うと、月森は咎めるように香穂子を見た。


「ヴァイオリンを弾く物なら、このくらいは知っていて当然だ」


「そうなの?」


「そうだ」


月森はベンチに腰を下ろした。

そして、そのまま黙ってしまったので、香穂子も口を閉ざした。




空は青く、綿菓子のような雲が、ぷかりぷかりと浮かんでいる。


(こんな日は、のんびりと川辺でも散歩したら楽しいのになあ)


香穂子は、両手をあげて伸びをした。


すると、月森が、ぽつりと呟いた。


「・・・・君は、本当にヴァイオリンは初心者なんだな」


香穂子は、ドキリとして月森をみつめた。

なんと応えようかと思っていると、月森は言った。


「初めは、普通科でも、趣味でヴァイオリンをやっているのかと思った。

だが、その程度でコンクールに参加できるわけはない。

第一セレクションで君の演奏を聴いても、『少し、弾ける程度』としか思えなかった」


香穂子は何も言えなかった。

どう言われても仕方がない。

本当に初心者なのだから。


「けれど、最近はわからなくなってきた。

ハっとするほど、美しい音を響かせたかと思うと、初心者以下のような音をだしたりする。

・・・・・始めたばかりでも弾ける天才なのか、それとも・・・」


月森は、香穂子に問いただすというよりも、自問自答しているようだった。


(まさか、リリからもらった『魔法のヴァイオリン』だなんて、言えないよね)


言ったら、軽蔑されると思った。

月森だけではなく、優しく接してくれる柚木や、火原。

それに、いつも励ましてくれる土浦は、どんな顔をするだろう?


時々、コンクールを辞退すればよかったと思うこともある。

ヴァイオリンが弾けて、いろいろな曲に出会えるようになったのは本当に楽しいことだけれども、

みんなを騙していると思うと心苦しかった。


もし、ここで、月森に本当のことを話したら、月森は、どういう反応をするだろうか?






「日野?」


月森は、普段、おしゃべりな香穂子が黙っているので心配になったらしい。


「え?あ、なに?」


「いや・・・・・それより、その曲は止めた方がいいと思う。

君には弾きこなせないだろうし、だいいち、今度のセレクションのテーマにもあっていない」


「あ・・・・そうなんだ」


香穂子が、初心者、もしくは初めて1,2年くらいなのは、明らかだ。


ヴァイオリンの演奏はともかく、知識がまるでない。


月森は、ここ数日、香穂子のことで頭を悩ませていた。


こんなに誰かが気になるのは初めてのことだった。


今まで、月森にとって、ライバルと言える人間は、いないに等しかった。


だが、香穂子の存在は月森を悩ませる。


なぜ、初心者の彼女が美しい旋律を奏でられるのか?

柔らかく、時には激しく、ヴァイオリンを歌わせられる香穂子に嫉妬しているのか?

それとも・・・・・?


「でも、せっかく柚木先輩からもらったのに、弾かないのも悪い気がするなあ」


そうだった。なぜ、柚木が香穂子に、こんな難解な曲を選んだのか?


(何か意図があるのか?)


そう考えて月森は即座に否定した。

あの、誰からも慕われるような微笑を浮かべた柚木は、ただ、親切心で香穂子にこれを渡したのだろう。


月森は香穂子に言った。


「もし君から返しにくければ、俺が代わりに返しておくが?」


「月森くんが?」


香穂子は驚いて月森を見ていたが、すぐに首を横に振った。


「ううん。やっぱり、自分で返すよ。せっかく柚木先輩が選んでくれたんだから」


「そうか・・・・」


香穂子は、ぴょんと立ち上がるとヴァイオリンをかまえた。


「ねぇ、月森くん。この前、弾いていた曲、なんていうの?」


「あ・・・・・あぁ。序奏とロンド・カプリチオーソ。サン=サーンスだ」


「そうなんだ。あれも素敵な曲だよね!」


そう言うと香穂子は弾き始めた。


月森は、目を見開いた。


この曲も、簡単ではない。


先ほどの口調では、香穂子は、これを弾いたことがないはずだ。


(なぜ、これほどまでに弾ける!?)


香穂子は目を閉じて、うっとりとした表情で弾いている。

まるで、ヴァイオリンを弾くのが楽しくて仕方がないというように。


月森は、次第に香穂子の奏でる音楽に魅せられていった。

と、同時に自分には表現できない物を表現できる香穂子を羨む気持ちが沸き起こった。


(これが、才能というものなのか?)


自分には与えられなかったモノ。


人は、自分を『才能がある人間』と表するが、そんなものは、

幼い時からヴァイオリンに何万時間も費やしてきたからだ。

友人と外で遊ぶことも、指を怪我したら大変だと、極力、避けてきた。

月森にとって、ヴァイオリンとは、なくてはならないものだけれど、

目の前の彼女のように幸せを感じて弾いたことなどなかった。


(彼女と、俺の違いは・・・・・)


月森は、香穂子に背を向けた。

今日は、香穂子と、これ以上、いたくはなかった。




香穂子が弾き終えた時、すでに月森の姿はなかった。
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