金色のコルダ〜月森編〜
□月森編〜1〜
1ページ/2ページ
たった今、教師から言われたことで月森の気持ちは乱れていた。
いつかは、と考えていたことだったが、今、この時期に『それ』を考えるつもりにはなれなかった。
月森にとって、一番、大切なのはヴァイオリン・・・音楽だが、今後、音楽をやる上で、香穂子は必要不可欠な存在だ。
だから、今のこの状況で、他のことを考える余裕は月森にはなかった。
教師には、保留にさせてほしいと告げてきた。
もちろん、いつまでも答えを先延ばしできるとは思っていない。
けれど、今は・・・・・・。
月森は、教室が見えてくると足を速めた。
きっと、ひとりで心細い想いをして待っているに違いない。
「香穂子」
月森がドアを開けると、香穂子は目に見えて驚いた様子を見せた。
「月森く・・・ん」
明らかに様子がおかしい。
月森は、陽が翳って暗くなってしまった教室の中に足を踏み入れた。
「遅くなってすまない・・・・・・香穂子・・・泣いているのか?」
室内が暗かったので、近づくまで気づかなかった。
香穂子は小さな肩を震わせていた。
自分がいない間、何かあったに違いない。
(まさか・・・)
月森は今、脳裏に浮かんだことを慌てて追い払うと、香穂子の肩を抱いた。
「・・・何か・・・何かあったのか?」
「・・・ううん・・・なんでもな・・・いよ」
そう言いながら、後から後から涙が彼女の頬を伝っていく。
何もないわけがない。
「君が泣いているのは見たくない。理由を聞かせてくれないだろうか?」
すると、香穂子は、涙を拭うと、どうみても無理矢理としか見えない笑顔を作った。
「本当に何でもないの。それより、月森くんの用事は、もう終わったの?」
「・・・ああ・・・香穂子・・・もし、俺が・・・」
「月森くんが?」
月森は、香穂子の顔を見つめたまま、それ以上、何も言うことができないまま、口を閉じてしまった。
「いや・・・なんでもない」
「?」
「帰ろう・・・君の家まで送らせてくれないか?」
きっと、変に思われただろう。
だが、自分の気持ちが定まっていないのに、仮定の話を香穂子に聞かせるわけにはいかないと思ったのだ。
変える途中・・・ふたりの会話は途切れがちだった。
月森は、香穂子の涙の理由を気にかけていたし、香穂子の方は、途中で話をやめてしまった月森の様子の不自然さを気にしていたからだ。
香穂子の様子を気にしつつ、彼女を家まで送り届けた後、月森が家に戻ると、珍しく両親共に揃って出迎えてくれた。
母は、確か、今月一杯は、ヨーロッパでのコンサートツアーのはずだ。
父は父で仕事で、アメリカ出張中だったのだが・・・・・・。
「お帰り、蓮。随分、遅かったのね。さあ、食事にしましょう。あなたを待っていたのよ」
「・・・どうかしたんですか?おふたりとも、今月は日本に戻らない予定ではなかったと思うのですが・・・」
久しぶりに会った両親に対して、冷静な応対をしているからといって、嬉しくないわけではない。
ただ、おおっぴらに喜ぶ顔を作るのが苦手なだけなのだが、母は少し淋しそうな顔をした。
そんな顔をさせてしまったことを悪いと思いつつも、月森には、どうすることもできなかった。
「こっちで打ち合わせしなければならないことがあったから、急遽、戻ってきたのよ。明日には、また向こうに戻るわ」
「そう・・・ですか」
「ええ・・・本当は、もう少し、ゆっくり、あなたと過ごせるとよかったのだけれど」
「俺のことは気にしないでください」
「蓮・・・」
母との会話が途切れると、月森は気まずそうに目を逸らし、「着替えてきます」と言って自室へと向かった。
部屋に入り、電気をつけると、月森は、アスコットタイを緩め、吐息をついた。
1年の内、ほんの数週間ほどしか会うことのない両親を前に、何を話せばいいのか、わからない。
話すべきことは、たくさんあるはずなのに、いざ、彼らを前にすると、 話す事がみつからない。
ただ、彼らが訊ねてくることに対して、言葉を返すことしかできない。
いつから、両親との間がこんな風になってしまったのか・・・。
小学生低学年の頃までは、こうではなかった。
その頃も、両親が家にいることは、あまりなく、月森は寂しい想いをしてきたが、それでも、両親が帰ってくると、その後ろをついて回って、学校での出来事を話したものだ。
それに対して、両親は笑顔を絶やさず、月森の話すことを聞いてくれていた。
ヴァイオリンを弾けば弾くほど上手くなっていくことが嬉しくて・・・・・・。
上手く弾けたことを、父が頭を撫でて褒めてくれて・・・。
母は、新しい曲が弾けるようになる度に、月森のヴァイオリンの伴奏をしてくれた。
あの頃は、確かに、毎日が、キラキラと輝いていた。
月森は、机の上に、慎重な手付きでヴァイオリンケースを置いた。
今は、何の憂いもなくヴァイオリンを弾いていた頃とは、違う。
ヴァイオリンを弾くことは、自分自身との戦いだ。
望みの音を出すためには、血の滲むような努力をしなければならず、弾けて嬉しいだとか楽しいだとかの感情は薄い。
だが、香穂子と出会って、彼女の音に惹かれ、彼女と共に音を奏でたいと思うようになったことで、月森は、音楽を純粋に楽しんでいた頃のことを思いだした。
何より、月森がヴァイオリンに向かう時は、必ずといっていいほど、香穂子に聴かせたいと思うようになった。
それまで、誰かのために・・・誰かを想って弾くことなどなかった自分が、だ。
それほど、香穂子は月森の中で大きな位置を占める存在になっていた。
そんな彼女を残して、果たして、自分は留学など、できるのだろうか?
教師は月森に言った。
ウィーンへ留学する気はないか、と。
なんでも、春の学内コンクールの最終セレクションでの月森の演奏を聴いた、ウィーン在住の有名なヴァイオリニストが、月森をぜひ、指導したいと言ってきたが、学院側は、まず、月森自身にではなく、彼の両親にそのことを打診したらしい。
だが、月森の両親は、断り、その話は、そこで立ち消えになっていた。だが、ウィーンから、もう一度、本人に留学の意思があるかどうかを確かめてくれと言ってきているため、学院側も今回は、月森に話したのだった。
元々、いつかは留学する気でいた月森だったから、半年前の自分なら、即座に承諾したに違いない。
だが、今は・・・・・・。
月森は窓に映る自分自身に問いかけた。
「俺に・・・できるだろうか?香穂子を置いて、留学なんて・・・」
今度こそ、月森の気持ちに応えたいと言った香穂子に対し、柚木は認めないと言った。
香穂子の気持ちが、柚木にあってもなくても構わないと。
確かに、柚木は自分を強く想っているだろう。
だが、その想いの中には月森に渡したくないという意地と独占欲が働いているような気がしてならない。
柚木に惹かれている気持ちがなくなったわけではない。
けれど、森の広場で月森にキスしたような衝動を柚木に感じるかと問われれば、否と答えるしかない。
もう、その時点で答えは出ているのだ。
今まで何事も受身だった香穂子が自分から、キスしたいと思った相手が、月森だったということ。
それは変えられようのない事実なのだ。
だから、香穂子は柚木に告げた。
自分から、月森にキスをしたことを。
柚木は、一瞬、瞳を瞬かせたが、それがどうしたと言わんばかりに、鼻で嗤った。
『だから?おまえの気持ちが俺ではなく、彼にあるのだから、俺に手を引けって?』
『そういうつもりじゃ・・・』
『そんなこと今さらだろう?わざわざ、そんな話、聞かされなくても知ってるさ。おまえが、彼を想っていることなんてね』
『柚木先輩・・・』
『ま、いい気はしないけどな。自分の女が他の男にキスしたなんて・・・おまえ、俺がそれを聞いて、どう思った?俺が傷つかないとでも思ったのか?』
『・・・・・・』
『・・・言っておくが、おまえが、今後、彼と何をしようと、俺はおまえを放すつもりはないぜ』
『柚木先輩・・・』
香穂子は、柚木とのやり取りを思いだし、心を沈ませた。
柚木は、ああ言ったが、本気なのだろうか?
香穂子が、この先、ずっと月森を想っていても、平気でいられるのだろうか?
(柚木先輩は、つらくないの?)
月森を選ぶと決めた今も、柚木のことを考えると胸が痛む。
きっと、一生、胸の奥に刺さった小さな棘のように、香穂子を苛むに違いない。
柚木を選ぶことはできない。
だが、今でも思っている。
柚木が、音楽を・・・フルートをやめないこと。
音楽を誰よりも愛していると思うから・・・家の事情なんかで、諦めてほしくなかった。
そのために、今の香穂子ができることは、ソロコンサートの出演権を得ることだ。
(できる限りのことは、しよう)
香穂子は机の抽斗の中から学内コンクールの時に練習した楽譜をいくつか取り出した。
その中には、練習したものの、セレクションでは弾かなかった曲もいくつかあった。
香穂子は、数冊の楽譜の中から、1冊を選んだ。
ずっと、何を弾こうかと迷っていた。
だが、答えが出た今、弾くべき曲は、これしかないと思った。
香穂子は、懐かしそうに音符を目で追いながら口ずさんだ。
初めて、この曲を聴いた時、なんて、美しい曲だろうと思った。
この曲を弾いた月森の音色が耳に甦る。
自分への溢れるような想いに気づいていたのに、その時は、自分の気持ちがわからずに、応えることができなかった。
香穂子は窓に映る自分自身を見つめ、呟いた。
「・・・今度は・・・わたしの番・・・」
ちょうど、同じ時、月森が将来のことで悩んでいることなど、香穂子は、思いも寄らなかった。