オリジナル
□Cruel moon〜9〜
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「樹、おはよう・・・あら、ひどい顔色。具合でも悪いんじゃない?」
母の心配そうな口ぶりに樹は微笑んでみせた。
「大丈夫。ちょっと、レポートが終わらなくて遅くまで起きてただけだよ」
言いながら、樹は何気ない素振りで部屋の中を見回した。
凛子の気配がない。
樹は小さな吐息をつくとテーブルについた。
母は樹の前にトーストとサラダ、スクランブルエッグがのった皿を並べた。
樹は、ちらっと、それらに視線を向けた。
食欲はない。だが、無理にでも食べなければ、母は心配するだろう。
けれども、樹はサラダをつついただけでフォークを置いてしまった。
「母さん、悪いけど、もう出ないといけないから」
「出るって・・・今日は確か、授業ない日じゃなかった?」
樹のカップにコーヒーを注ぎいれようとしていた母は、手を止め、怪訝そうに首を傾げた。
「凛子の高校の体育祭・・・行くって、約束したからね」
「高校の体育祭なんて父兄が行くんだったかしら?」
樹は苦笑した。
「行かないのが普通なんじゃないかな。でも、前から凛子と約束していたし・・・それに・・・」
樹の脳裏に総一郎の顔が浮かんだが、慌てて、その映像を追い払うと、もっともらしく聞こえそうな、いい訳を咄嗟に口にした。
「あいつ、まだ火傷が治りきっていないのに、絶対に無理して頑張ると思うんだ。だから、俺は、凛子の暴走を止める、防波堤ってところかな?」
「そうねぇ・・・あの子ったら、昔から、おとなしそうに見えて、結構、ムキになるところがあるから」
母は樹の肩を軽く叩いた。
「頼むわね。なんだかんだ言って、凛子は、わたしやお父さんの言うことよりも、あなたの言うことを一番、よく聞くもの」
「・・・・・・ああ」
樹は表情を曇らせた。
果たして、そうだろうか、と思う。
今の凛子は・・・いつでも自分の後をついて来た幼い日の凛子と違う。
兄である自分よりも、好きだと思う相手を、見つけてしまったかもしれないのだから。
樹は睫を伏せて軽く頭を振ると椅子から立ち上がった。
「じゃあ行って来るよ」
「本当に、出るの?」
「うん、大丈夫。もう、ほとんど痛くないし」
本当は、まだ、時々、痛みが走るのだが、数十秒、走るくらいなんでもない。
凛子は胸を張って自身ありげなところをクラスメイトに見せた。
「そう?じゃあ、無理なようだったら言ってね」
「大丈夫、大丈夫!」
凛子はクラスメイトを安心させようと手をひらひらと振ってみせた。
体操着に着替え、教室を出たところで、前を制服のまま歩いている総一郎の後姿をみつけ、凛子は小走りで近づいた。
「なぁに?まだ、着替えてないの?」
「あ?なんだ、おまえか」
「・・・悪かったわね・・・それより、早く着替えないと、もう時間ないよ」
すると総一郎は欠伸をしながら眠そうに目を瞬かせた。
「いいのいいの。俺、体育祭、出ないから」
「出ないって、どういうことよ?体育祭は、クラス全員参加が決まりでしょ?」
「んなの、知らねぇよ。体育祭なんかカッタルイの、俺が出るわけないだろ」
そう言いつつ、総一郎は、スタスタと昇降口を通り過ぎると廊下を突き進み、保健室へと入ってしまった。
「ちょっと!」
凛子は総一郎の後を追って保健室のドアを開けた。
だが、確かに、ここに入ったはずの総一郎の姿は、どこにもなかった。
「あれ?」
総一郎どころか、保健室には誰もいない。
体育祭のために保健の教諭も、すでに校庭の方で待機しているのだろう。
「門倉くん、いるんでしょ?」
すると、奥の方から声が聞こえてきた。
「こっち」
声のする方へ足を進めた凛子は簡易ベッドが置いてある前まで来ると、勢いよく、カーテンを開けた。
総一郎は、大きな体を丸め、ベッドの上に横になっていた。
凛子は毛布を引き剥がすと総一郎に言った。
「ほら、起きて!」
「なんでだよ?」
「ちゃんと体育祭、出なきゃダメだってば」
「だから、なんで?別に俺、ひとりくらい、いなくったって構わねぇじゃん」
総一郎は毛布を剥がされても、まったく起きようとはしなかった。
「そういうわけにはいかないの!団体行動を乱しちゃダメなんだから」
凛子は総一郎を無理矢理、引き起こそうとした。
「眠いんだよ。昨夜、あんまり寝てねぇんだから」
「寝てないって・・・?」
確かに凛子も、昨夜は、なかなか寝付けなかった。
総一郎としたキスのことが頭から離れなくて、ひとりで赤くなったり青くなったりしていたのだ。
(・・・もしかして、こいつも、それで眠れなかったのかな・・・?)
だが、次の瞬間、総一郎は、とんでもないことを言って凛子を怒らせることになる。
「女とやってたから、寝てねぇんだって」
「は?」
凛子は耳を疑った。聞き間違いかと思い、再度、訊ねようとすると、目を開けて、ニヤニヤと意味ありげに笑っている総一郎と目が合った。
「昨夜、あの後・・・おまえと別れた後、女のところに行ったんだよ、凛子ちゃん」
凛子は大きく目を見開いた。
いつものように冗談を言っているのかと思ったが、総一郎は凛子の反応をおもしろがるように笑っているだけで、嘘か本当か、わからない。
「・・・それ・・・本当なの?」
自分でも驚くくらい、衝撃を受けている。
元々、総一郎がそういう男だということは、わかっていたはずだった。
キスしたくらいで、自分と彼の間で何か変わるだなんて思ってやしなかった・・・はずなのに・・・。
(でも、ひどい!あんなキスした後で、他の女となんて・・・!)
「本当もなにも・・・おまえが、相手してくれれば、わざわざ他の女のところなんか行きゃしなかったけどな。凛子ちゃん、やらせてくれそうにないし」
凛子は拳を握りしめた。
これ以上、一言でも総一郎が口にしたなら、殴りつけてしまうかもしれない。
だが、凛子は、ギリギリのところで踏ん張った。
悔しさと、わけのわからない感情を押し殺して凛子は告げた。
「わかってたけど・・・あんたって最低!お兄ちゃんの言う通りだった。あんたみたいな男、好きだなんて思った自分が恥ずかしいわよ」
凛子は、それだけ言うと踵を返そうとした。
だが、次の瞬間、総一郎の腕が凛子の腰にまわり、引き寄せられてしまった。
「また兄貴かよ」
「ちょっ・・・放して!」
総一郎は、イライラしたように引き寄せた凛子の躰をベッドの上に押し倒すと、そのまま覆いかぶさってきた。
首筋に噛み付くようなキスをされ、凛子は悲鳴を上げようとしたが、寸前で唇を塞がれてしまった。
凛子には、なぜ、突然、総一郎がこんな行動に出たのか、わけがわからなかった。
躰の上に重なるように圧し掛かられているため、身動きがとれない。
(こんなところで!)
学校の・・・しかも、いつ誰が入ってきてもおかしくない保健室のベッドで、こんな行為に及ぶ総一郎の神経が信じられなかった。
それに、つい数時間前まで他の女を抱いていた同じ手で、唇で触られるのは嫌だった。
だが、総一郎は、ひとしきり、凛子の唇を貪ると躰を起こした。
凛子も慌てて起き上がると、総一郎の頬を思い切り、引っ叩いた。
「どういうつもり!?」
総一郎は叩かれた頬を撫でると呟いた。
「人の顔、何度も・・・つくづく、凶暴な女だよな」
「た、叩かれるようなことする、あんたが悪いんでしょ!」
「キスしたことが悪いって?あ〜あ、それじゃ、いつになったら、やらせてくれるわけ?」
凛子は、真っ赤になった。
「や・・・やらせるって・・・そんなこと、させるわけないじゃない!」
総一郎の目的は、自分の躰だけだったのか。
だいたい、つきあってもいないのに、そんなこと考えたこともない。
「なんで?おまえ、俺のことが好きだって言ってなかったっけ?」
「好きだからって、そんなこと・・・だいたい、わたしたち、つきあってもいないのに、おかしいわよ!」
付き合うとか以前に、総一郎が、いったい、自分のことをどう思っているかも、わからないのだ。
(それなのに、やるの、やらないのって・・・)
「じゃあ、つきあったら、やらせてくれるわけ?」
総一郎は凛子を追い詰めるようににじり寄ってきた。
凛子は逃げ場がないと知りながらも、できる限り、総一郎から離れようと躰を逸らした。
「・・・・・・つ、付き合うって・・・本気?」
総一郎は笑った。
「別にたいしたことないだろ。付き合うくらい」
昨夜、総一郎は、誰も本気で好きになったことがないと言っていた。
好きという感情がどういうものだか、わからないと。
そんな彼と本当に付き合ってもいいのだろうか?
凛子は揺れていた。
こんな奴、最低だと思うのに、惹かれる気持ちを抑えることができない理由は、なんなのだろう。
凛子は、改めて総一郎の顔をじっと見つめた。
(顔?確かに、見た目はいいけど・・・でも、それを言ったら、香山先輩だって・・・)
瞬間、昨日、香山に襲われそうになったことを思いだし、凛子は顔を顰めた。
「なんだよ。人の顔見て、顔、背けるなよ」
「別に・・・背けてなんかいないわよ」
凛子は思いだした。
あの状況で、助けを求めたのが、兄の樹ではなく、総一郎だったということを。
それに・・・・・・昨夜、総一郎とキスをしながら、それ以上のものを欲していたことも確かだった。
凛子は、もう一度、まっすぐに総一郎を見つめた。
「いいわ。あんたと付き合っても。でも、だからって、わたしがいいって言うまでは、キス以上のことしないで」
総一郎は、ガクっと肩を落とした。
「なんだよ、それ・・・ま、いいか。おまえに合わせて、小学生並みの恋愛ごっこから始めてやるよ」
「小学生って・・・中学生くらいでしょ?」
すると総一郎は凛子の額を軽く小突いた。
「痛っ!」
「今時の小学生は、凄いぜ。俺だって初体験は、小学校・・・」
「ストップ!あんたの初体験の話なんて、聞きたくないわよ。それより、早く、校庭に出なくちゃ」
「なんだよ。やっぱり、出なくちゃなんねーわけ?」
「あたりまえでしょ。ほら、早く」
凛子はベッドから飛び降りた。その拍子に、足に痛みが走り、蹲った凛子が顔をわずかに歪めると総一郎が手を差し出した。
「おぶっていってやろうか?」
「平気。このくらい」
「ったく、気の強い女だよな」
「どーせね。ほら、行くわよ」
凛子は立ち上がると総一郎の背を押した。