短編小説

□泳ぎの得意な君と僕
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「ごほ、ごほっ……! っはー……!」

 水面から顔を出し、大きく咳き込む。危うく溺れるところだった。プールの水深がおかしい。自分は背が低いほうではないが、底に足がつかないなんて最早新手のいじめにすら思える。
 それに、泳ぐのは苦手だ。海兵になると夢見た頃から泳ぎの練習はしていたものの、全く上達しなかった。浮くことは出来るが、前に進まないのだから困ったものだ。

 プールから顔だけを出して苦しそうにしていると、先に上がって日陰で休んでいたクザンがこちらにニヤニヤと笑いながら近寄ってきた。

「もしかしてお前、泳げないの?」
「うるさいな……ほっといてよ」

 そう言われて思わず口を尖らせた。自分だって出来ることなら泳げるようになりたい。海兵として海に出るのならば、泳げるに越したことはないだろう。それに、万が一海に落ちた時も自力で船まで戻れる可能性が高い。

「恥ずかしがるなって! なんならおれが教えてやろうか?」

 自分が泳げないことに落胆していると、クザンが突然そんなことを言った。
 クザンは運動神経が良いだけあって、泳ぐのも得意だ。そんな友人が、泳ぎを教えてくれるとなれば食いつくしかなかった。

「マジ? 教えて」
「うわ、急に素直」

 自分で教えると言ったのに、なぜそんなに驚くのか分からなかった。だが旅は道連れ、世は情けなんて言うじゃないか、仲良くしような。

「早く泳げるようになりたいんだって」
「ふぅん、じゃあ教える代わりになんかよこせ」

 冗談めかしてそう言うクザン。対価となるものなど持っていない。少し考える素振りを見せてからキリッと表情を作った。

「んー……じゃあ、出世払いで」
「いつ出世すんの」

 するどい突っ込みに笑ってしまうと、クザンも同じように声を上げて笑った。


 あの日からクザンは楓の自主練習に付き合うようになった。始めはバタ足すらろくに出来ず、腕も子どもの水遊びかと思えるようなものでそれはそれは酷いものだったが、泳げるようになりたいと真摯な眼差しで言うだけあって、日々教えたことを吸収していく楓に泳ぎを教えるのは苦ではなかった。

「これならもうすぐクザンより泳げるようになるね」
「そういうのは50メートル息継ぎなしで泳げるようになってから言えよ」

 軽口を叩きながら貸しきり状態のプールで訓練するのは、楓にとってとても有意義で、楽しい時間だった。


 それからクザンは昇格した。海賊を捕縛し、倒し、名を挙げていった。怪物一期生と呼ばれるいくつか上のサカズキ先輩やボルサリーノ先輩と並ぶほどになった。
 そんな中、楓はクザンに置いていかれている様な気がした。実際そうだ。クザンは頭も良く、要領も良い。運動神経も性格も、自分とは比べ物にならない。クザンよりも、得意なこともない。引け目を感じるのも、無理はない話だった。

 昇格は年単位でしていくもので、毎年のようにクザンが評価されていくのに対し、自分はそこそこの伸びしか見られない。同室でその日あったことを話し合うたびに、差が開いていくのを顕著に感じた。それに伴いクザンは急がしそうで、自分よりも遅く帰ってくることも少なくなかった。なのに、自分の水泳の訓練に付き合ってくれている。それが、とてつもなく申し訳なく思えた。
 優秀な人間の、足を引っ張っているようで。

「もう自主練に付き合わなくて良いよ」

 ある日、部屋に帰ってきたクザンに思い切ってそう告げた。
 忙しいでしょ? と半笑いでそう言えば、クザンはなぜか傷ついたようで、表情を歪ませた。

「何でそんな事言うんだよ」

 その表情にいたたまれなくなって黙っていると、クザンはこちらに詰め寄ってきた。

「お前はまだおれより泳げないだろ。そういう遠慮は、おれより泳げるようになってからにしろ」

 初めて、クザンを怖いと思った。何もかもが優れている人間は、自分のことより相手のことを考えられるのか。やはり、自分は一生クザンには追いつけないという事実も、受け入れざるを得ないのだろうか。

「……ごめん、そうだよね。これからも教えてくれる?」
「ったく、変な気ぃ遣うなって」

 な? と笑いかけてくるクザンに、力なく笑い返した。


 そしてクザンは、中将になった。その頃にはクザンのおかげで人並み以上に泳げるようになっていた。それだけの年月を一緒に過ごしてきたというのに、終わりはあっけないものだ。
 クザンとはこれで同室ではなくなる。クザンは一人部屋が与えられるため、もうほとんど会うこともなくなってしまう。

「楓と同室で良かったわ」

 また会えた時は挨拶くらい返してくれよ、とクザンは荷物をまとめて出て行った。
 クザンと同じ部屋で良かった、と自分が言うべきだったのではないだろうか。クザンは本当に色々なことを教えてくれた。勉強に付き合ってくれたり、一緒にいたずらをしてゼファー先生に怒られたり、最たるは泳ぎ方を教えてもらったことか。同じ時期に入隊したのに実力の差を見せ付けられてしまったこともある。
 楽しかったような、楽しくなかったような。

 最後に何も言えなかったのが悔やまれる。
 昔はどれだけ頑張っても追いつけない劣等感に苛まれもしたが、今では少しの諦めと、憧れを抱いている。
 それにクザンほどの実力があれば、大将だって夢じゃない。隣で見てきた自分がそう言うんだから間違いない。でも、今後はそれを隣で見ていることは叶わないのか。

「……っはー、もー……」

 いてもたってもいられなくなって、扉を蹴破るようにして部屋から飛び出した。




「クザン中将」

 軍艦を前に険しい表情をしていたクザンに声が掛かる。その声には聞き覚えがあり、後ろを勢いよく振り向く。

「……は? なんでここに」

 そこには、楓がいた。なぜ、ここにいるのか。
 大佐になった楓は、部署が移動になったと聞いていた。大体移動になると海を越えて支部を任されたりするものだ。いや、そうするように仕向けた。楓ならやる気もあるからどこの支部でも任せられます、と上に推薦したのがつい先日のこと。
 目の前にいることが信じられず、思わず声が漏れてしまった。そんなクザンに楓は手を上げながら近寄ってきた。

「なんてね。よっ、お疲れ様」
「え、いや、あ?」

 理解が追いついていないクザンに、楓は笑いかけた。

「間に合って良かった。荷物は全て積み込んだ?」
「いやいや、ちょっと待て。なんでここにいるんだ?」

 そう言えば楓はきょとんとした後、クザンを見上げて困ったような笑顔を浮かべた。

「なんでって、僕もクザンの船に乗るからだけど」

 何を言ってるんだ? と言わんばかりの表情だが、それはこちらの台詞だ。
 しかしそれが分かったのか、楓は眉を顰めて口を尖らせた。

「クザンの部下として本部所属のままにしてもらったんだよ」
「は? なんでそんなこと……!」

 せっかく推薦してやったのに! と焦るクザンに楓は

「出世払いするって言ったでしょ」

と満悦の笑顔を浮かべた。どっきりが成功した時の子どものような笑みを浮かべる楓に、クザンは言葉に詰まってしまった。出世払いするなんてもう何年も前の、他愛もない話の中での冗談だったのではないのか。
 しかし、見下ろす楓はとても嬉しそうにしている。なかなか昇格できないと悩んでいたことも知っている。自分と比べて劣等感を感じていたのも知っている。だから、同期である自分の部下になるなんて嫌だろうと思っていたのに。

「お前おかしいぞ……」
「それ先生にも言われた。普通同期の下につくのは嫌がるもんだぞー、って。そりゃ最初は迷ったよ。でも、クザンの部下ならいいかなって」

 ゼファー先生の真似をしているようだが、全く似ていない。

「お前……ふっ、やっぱりおかしいわ、はは」

 思わず笑ってしまった。色々悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。

「で、具体的にはどう払ってくれんの?」

 ひとしきり笑った後そう聞いてみた。すると、待ってましたと言わんばかりに楓の顔が輝いた。

「悪魔の実食べたって聞いたよ。もう泳げないでしょ。もしクザンが海に落ちるようなことがあれば、すぐに助けてあげるから」

 なるほど、そうきたか。確かにそれは、魅力的な対価である。悪魔の実の能力者は海に嫌われ泳げなくなるという。ということはクザンよりも、楓に優れた部分が一つ出来た、ということだ。
 楓の笑顔は、いたずらっ子のようでいて、ありありとそれを物語っていた。

「今では僕のほうが、泳ぎは上手いからね!」
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