novel 1 


□愛の紋章 9
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 35 願愛 @



エジプト軍より遣わされてヒッタイト陣営を訪れたのは、一介の兵士ではなく、王の無二の腹心であった。
猛将ミヌーエの登場は、ヒッタイト人らにいっそうの緊張感をもたらした。

彼はヒッタイトに最終的な返答を出すよう迫った。その旨はただちに王子に伝えられた。

敵陣の中、単身で堂々と待ち構えるミヌーエ。
神妙な面持ちで黙座するヒッタイト兵たち。
その光景が両国の現在の力関係を如実に表していた。

ヒッタイトがエジプトの指示に従うであろうのは確実だった。戦いを続行したところで生き残った兵を無駄に失うだけで、今のヒッタイトに勝ち目はない。王女死亡事件の決着をつけ、ナイルの娘を返還して、戦を終わりにする。敗戦国にそれ以外の選択肢はなかった。

イズミルの出現には、時間を要した。
兵士が再度、呼びかけをこころみた。
今は敵と味方の区別なく、その場にいる者全員がじっと彼を待った。

やがて天幕から銀髪の美丈夫が姿を見せ、遅れてナイルの娘が出てきた。

ミヌーエはキャロルの無事を確認した後、敵国の主に会釈した。
「イズミル王子、約束の時刻なれば、最終のお答えをいただきたい」
礼節ある態度で臨むエジプトの将軍に、ヒッタイトの王子もおだやかな物腰で応じた。
「返答しよう」

そして彼は言明した。王女殺害事件において、エジプトと和解すること。ナイルの娘を返還し、この戦を終了させることを。

「では───参られよ」
ミヌーエは先に立って進み始めた。
その少し後を、イズミルとキャロルが連れ立って歩いた。

ヒッタイトの陣地から去っていくキャロルの姿を、ルカは目で追った。
その気配が通じたように、キャロルが振り返った。
ふたりは目を合わせたが、口に出すべき最後の言葉を見つけられず、また会話が可能な状況でもなく、一瞬の見つめ合いで終わった。

みるみる大きくなる、お互いの距離。
それでもルカは一時も視線をはずさなかった。
キャロルがこちらを見なくなっても、ルカは全意識を傾けて彼女を追い続けた。





将軍がヒッタイト側から王子と娘を率いて来ると、エジプト陣営の奥より、王が現れた。
今回の対面は、野外でなされた。ふたつの軍の真ん中、両国の兵士が環視する場で、メンフィスとイズミルは対座した。
キャロルはひとまずミヌーエに託され、ふたりは少し離れた場所へ移動した。

ミヌーエが表情を和らげて言った。
「キャロル様、よくぞご無事で…!」

気がつけば、エジプト陣営にいる兵士達も、しきりにこちらへ視線を送ってくる。どの者も命の限り戦った末にようやく自国の守り神を取り戻すことができたという、喜びにあふれた顔をしていた。罪悪感がキャロルを包んだ。

メンフィスとイズミルはパピルスと筆を取り、それぞれの文字で約定書をしたためていった。
向き合う二人の傍らに、棺が置かれていた。焼け焦げた女の死体が目に入り、キャロルは震え声で尋ねた。

「ミヌーエ将軍、本当にメンフィスがアイシスを……?」
「本当です」
ミヌーエは静かに語って聞かせた。
「アイシス様は兵士達の前で王に刃を向け、さらに王の暗殺と首都テーベの占領を企図されておりました。王への反逆は死罪と定められています。アイシス様に仕えていた侍女アリ、計画に加担したナクト将軍とその一派にも、処刑命令が下されました」

キャロルは胸もとを押さえた。痛ましい顛末に、呼吸が苦しくなった。

こんな事態になることを、誰が予測できただろう。エジプト人は長らく信奉していた《下エジプトの女王》、王の姉と敬愛してきたアイシスを、いきなり思いもよらぬ理由で失った。戦に大々的に勝利したとて、エジプト側も決して無傷ではないのだった。




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