novel 1 


□愛の紋章 5
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 18 流愛 @



ナイルの娘がエジプトから消えた。聖なる神の娘はいなくなった。もはや地上に現れぬ。そんな話がエジプト国内に広まり始めていた。

「ナイルの娘がエジプトを去ってしまわれたと」
「婚儀の日が近いというのに───なぜだ?」
「婚儀前にしばし母女神と過ごしておられるだけではないのか」
「けれどいっこうに王のもとへお帰りになる気配がないぞ」
「いや、なんでもこの結婚は母女神がお許しにならなかったらしい。女神が娘を愛でたもうあまり、その御手から離したがらず、人の世に置いておくことを拒みなさったのだとか」
「しかし…それでは王が納得されるまいよ」
「そうとも、あれほどナイルの娘を愛しておられるのに」
「我々とてこれから何を心の支えにすればよいのだ。あの輝かしいお姿を二度と見ることができぬとは……」
「これからエジプトはどうなるのだろう」
不安におののく人々……

そんな折、一通の国書が、大エジプト王国からヒッタイト帝国へ届けられた。我が国エジプトは貴国ヒッタイトとの友好関係を復活させたい。ついてはミタムン王女死亡事件に関し、メンフィス王みずからイズミル王子との会見を望むという内容である。

「メンフィス王め、話し合いでミタムンの問題を済ませる気か」
ヒッタイト国王はいまいましげに書状を握りしめたが、王子イズミルは沈着に述べた。
「ナイルの娘の不在によって国内が混乱し、諸外国からも狙われやすくなっている今、メンフィス王も我が国との関係を安定させておきたいと考えたのでありましょう」
「ふん、エジプトとの和解などあり得ぬわ。しかしメンフィス王本人が出向いてくるというのなら、これは絶好の機会ぞ。会見に応じると見せかけ、やつが現れた瞬間に殺してしまえ!
いや、それよりも今こそ全軍をあげてエジプトに攻め入るのじゃ。ナイルの娘を捕らえていることを見せて急襲をかければ、やつは手も足も出せぬであろうよ。見ておれ、メンフィス王め、先の戦の報復を存分にさせてもらうぞ!」

好戦的な国王に、王子が進言する。
「戦を仕掛けるのは、しばしお待ちを」
「なにゆえじゃ、イズミル」
「私はメンフィス王と会見いたします」
「なんじゃと」
「エジプトにはなんとしてもミタムン殺害の罪を認めさせ、その代償を支払わせねばなりませぬ」
「エジプトが認めるものか。そのようなじれったい真似をせずとも、エジプトを倒すのは、娘がこちらの手にあり、メンフィス王が弱腰になっておる今ぞ!」
「我が国がナイルの娘を捕らえていたとわかれば、メンフィス王の方がおとなしく黙っておりませぬ。どのみち戦となりましょう。しかしそれではミタムンの問題がいつまでたってもうやむやのままです。エジプトの方からミタムンの件に触れてきた今、まずはこちらを整理しましょう。これは母上のためでもありますし、そもそも戦の発端であったこの件で、エジプトから公式な謝罪と賠償をもぎ取ることができれば、対外的にも我がヒッタイトの優位を確立できるかと存じます」
「ふむ、ではイズミルよ、会見をおこなうがよい。祝賀に訪れた友好国の王女の命を奪い、先の戦で我が国に甚大な損害を与え、なおもぬけぬけと和平を申し出おるメンフィス王に、たっぷりと仕返ししてやれ」
「はい」
「エジプトが認めぬ時は即刻開戦じゃ。そうなればナイルの娘を餌に、徹底的にエジプトを揺るがせてやろうぞ。
ふははは、メンフィス王め、捜し回っておった娘が我が国にいたと知れば、どんなに悔しがるであろう。よいか、イズミルよ、ナイルの娘をうまく使え。いずれは殺してもかまわぬが、あれは今、最も効力ある戦道具じゃからの」
「わかっております、父上。かの娘はエジプトへの最高の切り札。私の手で有効に利用してみせましょう」

するとさりげない返答であったにもかかわらず、国王の目がつと息子に向けられた。
「そちはあの娘にえらく執心しておるらしいの。メンフィス王の女がそれほど気に入ったか」
イズミルの答えはなかったが、
「ふん、まあよいわ、好きにせよ」
ナイルの娘の政治的価値は認めているものの、娘本人にさしたる興味のないヒッタイト国王は、念願の第ニ次エジプト戦へ早々に意識を移していった。




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