novel 1 


□愛の紋章 4
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 13 疑愛 @



一方……

キャロルがいなくなったエジプト国内は婚儀前の歓喜に満ちていたにぎわいを失い、一転して不穏な空気に包まれていた。
ナイルの女神の娘、大エジプト王国の神聖なる王妃、国の尊き守り神の突然の行方不明は、民を混乱と不安に突き落とした。

「ナイルの娘がいなくなったと」
「王宮から急に姿を消したそうな」
「婚儀の日が近いというのに…なぜだ?」
「いつお戻りになるのだろう」
「王はいたくご心痛だ」
「なにか不吉な出来事が起こるのでは……」

メンフィスは日々の政務をこなしつつ、時間が許す限り馬を駆り、キャロルの捜索に没頭していた。
彼の端麗な顔には濃い疲労の色がにじみ、寝食も充分でない様子が見てとれた。まなざしはさらにきつく険しくなり、五感は過敏なほど研ぎ澄まされ、豪胆な物腰にはいつ激昂するかわからぬ危うさが宿り、本来の猛々しい気性に拍車がかかっていた。
けれど漆黒の瞳の奥にたぎる情熱は消沈しておらず、むしろ日ごとに増大していた。王が娘への愛を微塵も失っていないのは、誰の目にも明らかだった。

「馬、引け──っ」
政務室で国事を終えたメンフィスが、いつものように叫んだ。
「王、お疲れなのでは……」
「かまうな」
ミヌーエの言葉を一蹴して走り出すメンフィス。
片時もじっとしておれぬ主君の心境を痛いほど把握している将軍は、
「わたくしもご一緒いたします」
自身も馬に跨がり、後を追った。

二人はナイル周辺を駆け巡るも、キャロルの不在を確認するだけの空虚な時を過ごした。
ナイル河の付近は日頃からも兵に見回りをさせ、国内の各方面には捜索隊も派遣している。けれど手がかりはつかめておらず、キャロルは見つからない。
時間だけが虚しく過ぎてゆく……

王宮に戻ってからも、何かをしていなければやりきれぬとばかりに、メンフィスはミヌーエに命じた。
「剣の相手をいたせ、ミヌーエ」
「王、どうか少しお休みください」
「案ずるな、参れ!」
ミヌーエはためらったが、今は少しでも王の心痛を発散させようと思考を切り変えた。
だが剣技に秀でた将軍と熾烈な打ち合いをしても、メンフィスの気は静まらない……

──キャロルが逃げた。
その事実が、狂わんばかりの衝撃をメンフィスに与えていた。

キャロルはメンフィスの言いつけに背いた。ナフテラやウナスの目を盗んで部屋の外へ出た。どこにいてもたちまちわかるあの黄金の髪を隠し、衛兵達にも気づかれぬよう、ひそかに王宮を抜け出した。

(キャロルは私から逃げた)
(なぜだ──なにゆえに)
悲憤が怒濤となって押し寄せる。

(私との結婚を嫌って?)
(私を嫌っ…て……!?)

「────!!」
勢いよく剣を振り上げた時、ウナスの声が割り込んだ。
「王、申し上げます!、南の銅山で、奴隷の一部が反乱を起こしました」
「なにっ」
「その者らを捕らえてございます」

王宮外のナイル河畔の草地にメンフィスが姿を見せると、槍を持った兵士の群が一斉に頭を垂れた。
集められた十数人のみすぼらしい男たちを、メンフィスは憤怒の形相で見下ろした。
「銅の産出が遅れていたのは、きさまらのせいか!」

初めて間近で見る若き王の凄まじい迫力に、縛られて傷だらけの奴隷達は震えあがった。
全員が口々に許しを乞うたが、
「この私に逆らえば、何人たりとも許さぬ。死ねい!」
メンフィスは手にした剣で、間近にいた男を叩き切った。

ギャーッ!という叫びと共に血が飛び散り、男が倒れる。
続いて剣は、隣の男の腹に深々と突き刺さった。
断末魔の呻吟が発せられ、剣を引き抜くと同時に鮮血が噴き上がる。

王は反逆者を次々と成敗していった。
夥しい血が地面を濡らし、奴隷達がみるみる死体と化してゆく。

(たとえ罪人でも奴隷でも、人の命は大切よ)
一瞬キャロルの言葉を思い出したが、メンフィスの激昂は止まらなかった。
(私はエジプトの王ぞ。はむかう奴は皆殺しにしてやる!)

けれど誰もがかしずく王であるということは、ひとりの娘の愛を得るのに、何の効果も発揮しなかったのだ……

恐怖に顔面をひきつらせた最後の一人を前にした時、メンフィスはふいに動作を止めた。
怒りの感情が急に途切れたように、赤く染まった剣を引くと、彼は黙ってその場を去った。




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