novel 1 


□愛の紋章 3
1ページ/18ページ


 8 奪愛 @



水中にゆらゆらと…黄金の髪がたゆとうていた。
冷涼な水で全身を包容され、意識は大いなる自然の意志と溶け合い、少女は聖なる大河に深く守られていた。
悠久の時間の鼓動、融合する天空と大地、生きとし生けるものの力強い循環。それら世界のすべてと少女は同化していた。

少女は願う。このままずっとこの流れに身をまかせていたい。何もかも忘れ、何も考えず、永遠にこの安らかな流れに揺られてまどろんでいたい……

だが心地よい水底からいつしか体は浮かんでゆき、上へ上へと押しやられた。
(ああ、いや、ここから出たくない)
見えない力で引っ張られる。
(わたしを連れ戻さないで──もう《そこ》へは帰りたくないの!)
必死でもがけども確実に水面は近づき、少女は悲しみあふれる残酷な地上界へと引き戻された──

「はっ……」
目を開けると、世界を満たしていた水流の幻想は消え、キャロルは現実の空間に横たわっていた。

起き上がったとたん、ひどい頭痛にみまわれた。なぜだか長いこと眠っていた気がした。
ナフテラは起こしてくれなかったのだろうか。でも扉の外にはきっとウナスがいて……

だが目に入ってくる光景は、慣れ親しんだ豪奢なエジプト王宮のそれではなかった。
キャロルは自室の寝台ではなく、天幕の中で長椅子に寝かされていた。

「ここは…どこ?」
(そうだわ、わたし──)
たしかルカと一緒にナイル河を下っていたはずだった。途中でいきなり水面から数人の賊が現れ、小舟に乗り込まれ、乱暴に捕らわれたかと思うと、そのまま意識を失ってしまった……

「ルカは──」
キャロルがつぶやいた時、
「目が覚めたか」
ひとりの男がゆっくりと立ちはだかった。
見覚えある銀色の髪と、長身の雄々しい体格──

「イズミル王子!」
「久しぶりだな、ナイルの娘」

キャロルは恐慌状態に陥った。
逃げ出そうとしても足がすくみ、呼吸さえうまくできず、眼前の男を呆然と見つめているしかなかった。
「どうして…どうして王子が…」
では水上で襲ってきた賊は、敵国ヒッタイトの者であったのだ。

銀色の美丈夫が間近に迫ってきた。
「よ、寄らないで、イズミル王子」

均整のとれた体型、波うつ銀の髪。見る者を魅きつけずにはおかない玲瓏な顔立ちと、威厳をたたえた琥珀色の瞳。
知性と武力を兼ねそなえた、令名高きヒッタイト帝国の王子イズミル。
だがキャロルにとっては最も恐ろしい存在……

「傷を見せよ」
短く命じるなり、イズミルは少女の衣装に手をかけた。 先の戦で自分が負わせた傷がどうなっているか知ろうと、大国の王子は平然とキャロルの上半身をあらわにしていった。

「やめて、王子!」
「騒ぐでない、そなたの力では私にかなわぬ」
「離して…いや!」
「おとなしくいたせ」
イズミルは圧倒的な力でキャロルをうつぶせに押さえ込むと、黄金の長い髪をかきどけて素肌を確認した。

男の目下で裸の背中をさらしながら、キャロルは恐怖にうち震えていた。
先の戦の際、イズミルには鞭をふるわれ、肩を刺され、瀕死の目にあわされている。次は何をされるかわからない。ミタムン王女の復讐と、敗戦に対する報復で、今度こそ殺される……




.
次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ