novel 1 


□愛の紋章 2
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 5 猛愛 @



大エジプト王国とヒッタイト帝国──ふたつの大国の戦は、エジプト側の勝利に終わった。ヒッタイトの王子にさらわれし《ナイルの娘》を、エジプトの王は炎のごとく攻め込んで奪回した。王と娘は愛の絆を深め、正式に婚儀の日が定められた。

エジプトの民は歓びにわいていた。誰もが婚儀の日を心待ちにしていた。若き勇壮な王とナイルの神の娘が結ばれれば、エジプトのさらなる繁栄と安泰は間違いなかった。ナイル河の岸辺には巨大な女神の石像が建てられ、結婚の儀式を執り行う新しい神殿の工事も着々と進んでいた。

そんな平和と幸福に満ちた日の朝、キャロルは王宮の中庭に出て、池のほとりに佇んでいた。蓮の花が咲き乱れ、陽光に照らされて輝く水面を、青い瞳が淋しげに見つめていた。

戦の最中でイズミル王子に刺された右肩がまだ痛む。エジプトに戻ってからも昏睡が幾日も続いたほどの深傷だった。

あの戦の時──城が燃え上がり崩れ落ちる中、メンフィスは命をかけてキャロルを救いに来てくれた。彼を愛している…と思った。ナイルの娘を守るために死んでいった多くのエジプト兵にも心を打たれ、もう二十一世紀には帰らな い、この古代にとどまってメンフィスと共に生きる。そう決心した。けれども……

メンフィスの束縛はますます厳しくなっていた。キャロルは王宮の一室に閉じ込められ、自由のない生活を強いられていた。独りで部屋にいてもナフテラが何かと様子を見に訪れ、扉の外には常にウナスが控え立ち、気軽にテーベの街へ出かけるのも禁じられた。一方的に命令され、行動を制限され、奴隷のように支配されるのは苦しかった。

「キャロル、ライアンとは何者ぞ。意識を失っている間、そなたはよくその名を口にした。まことに気に入らぬ」
ともすれば女のように美しいと称される秀麗な顔に怒気をみなぎらせ、キャロルに詰め寄ったメンフィス。

「その者はどこにいる──申せ」
「わたしの兄よ、何をそんなに怒るの」
キャロルは困惑しながら説明する。
「遠い三千年の時の向こうで、ライアン兄さんはわたしの行方を捜しているの。兄さんがわたしを呼んでいるのよ。何とかしてわたしが無事なことだけでも知らせたい。兄さんの声がわたしの心に響いたように、わたしの声を届かせるにはどうしたら…」
「──黙れ!、そなたは時々わけのわからぬことを言うが──他の男の名など口に出すな!」
突如、話を遮って発せられた、横暴な命令。
「この唇が私以外の男の名を呼ぶのは、どうにも我慢がならぬ」
「離して、メンフィス、まだ肩が痛むの、あ……」

息が止まるほどの抱擁。強引なくちづけ。
荒々しく押し倒され、剥がされてゆく衣装。
純白の素肌を覆う熱い愛撫と、その後にもたらされる愛の動作。

「あっ……あっ……メンフィス……」
「そなたは私のものだ。どこへもやらぬ。誰にも渡さぬ」
古来よりエジプト王家では兄妹や姉弟の結婚が多くなされている。メンフィスは誤解していた。

「メンフィス…違うの…兄さんは……」
「ライアンの話はするな。二度と私以外の男のことを考えるでない」
「でもライアン兄さんは…大切な…家族なのよ…忘れることはできな…」
「その名を呼ぶなと申すに!」
「お願い、ひどくしないで……ああ!」

メンフィスの激情に巻かれながら、心の中でキャロルは叫んでいた。
たとえ王だとて、人の感情や思考を支配することはできない。どんなに強大な権力を有していても、相手の心の中にまで踏み込むことはできない!

(今まで家族と生きてきた思い出を忘れるなんて無理だわ。それでも我慢しているのに。心の底から家族のもとへ帰りたいのを、わたしはあなたのために我慢しているのに)

女たちが一目で恋に落ちるほど美しく雄々しい王に熱烈に愛されていながら、キャロルは孤独感に蝕まれていた。

(わたしは古代でひとりきり。こんな気持ち…あなたにはわからないわね、メンフィス……)




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