novel 1 


□愛の紋章 1
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 1 初愛 @



イズミルがかの少女と出会ったのは、エジプトの首都テーベにある、にぎやかな商人の街であった。その時の光景を、彼は生涯忘れることがないだろう。

その数ヶ月前、ヒッタイト帝国の王女であり、イズミルの妹にあたるミタムンは、大エジプト王国の即位式に招かれた。
「エジプトの新しき王がどんな男か、父上や兄上にかわって、とくと見てきてやりますわ」
勝ち気な瞳を輝かせて隣国へ旅立っていった妹。
けれども若き新王メンフィスの思いがけない見目麗しさと颯爽たる雄姿にすっかり心を奪われてしまったらしく、ミタムンはエジプトに永住してもよいという文をヒッタイト本国へよこしてきた。
あの幼かったミタムンが恋を知る年頃になったのかと、成長した妹への頼もしさと同時に、一抹の寂寥感も混じる複雑な心境を味わったイズミルであったが、この縁談がまとまれば、エジプトとヒッタイト──ふたつの大国は固い絆で結ばれるはずであった。

ミタムンの文はエジプト王宮の情報をいろいろと知らせてきた。
祝賀に訪れた国賓の中にはアッシリアの皇太子がいた。各地から届く貢ぎ物の数と種類は相当なもので、エジプトが富める国たる所以を目のあたりにしている。
王姉のアイシスはたいそう弟に執着しており、何かにつけて意見したり、過度の干渉をおこなったりして、王はそれがやや煩わしそうでもある。
そう言えば先日、王は神殿の工事場から珍しい金色の髪の娘を拾ってきて、自分の奴隷として仕えさせている……など。

しかし、ほどなくして、神官が星占いの結果を告げた。
「メンフィス王にふさわしい妃は、姉君アイシス様である!」
エジプト王家では純粋な血統を重んじるため、兄妹や姉弟の結婚が珍しくない。
メンフィスとアイシス──エジプトの名だたる姉弟の結婚がここに決定した。

かくて傷心のミタムンは、早々に帰国する旨を伝えてきた。愛娘の嘆きの文面を見るや、ヒッタイト国王はメンフィス王を殺せとまで言い放った。
だがミタムンがヒッタイトへ帰って来ることはなかった。その便りを最後に、彼女の消息は途絶えたのだった。

使者を出して問うも、エジプト側の返事は「王女は挨拶もなく王宮を去られ、我々も驚いていた。帰国の途につかれたのは間違いなきゆえ、再度調査されよ」であった。

それからも──いつまで経ってもミタムンはヒッタイトへ帰らなかった。王女に付き従っていた侍女や兵士も誰一人と戻って来なかった。

ついにイズミルはみずからエジプトへ向かう決心をした。彼は少数の兵士を率いると、地中海を渡り、砂漠を抜け、百門の都と謳われて繁栄を誇るテーベの街に立った。

壮麗かつ堅固な大門をくぐり、最初に足を向けたのは、商人達が集い、多くの露店が建ち並ぶ場所だった。
そこにはエジプトの産物から他国の珍品まで、物資が豊富にそろっていた。威勢のよい売買の声が飛び交い、往来は人々であふれ、大国の市場は明るく活気に満ちていた。

自身も荷を積んだ駱駝を引き連れ、旅商人に扮して歩きゆく中、イズミルはあちこちで人々がひとつの話題に熱中しているのを見かけた。
それは囚人達が住む牢内で汚水を清水に変え、コブラに噛まれた王を助けたという不思議な少女──《ナイルの娘》の噂だった。

「コブラの毒から助かった者はいないのに、その娘が王の命を救ったとさ」
「あれから囚人達の間で病気が発生しない」
「河岸のパピルスの中から現れたと聞いたぞ」
「もしや母なるナイルの女神ハピの娘なのでは……」

王はその少女をいたく気に入り、今では国中に布告した姉との婚約を破棄して、彼女を妃に迎えたがっているという。
(それではミタムンの恋敵というわけか)

その時、周囲がざわめいた。
「ナイルの娘だ」
「おお、ナイルの神の娘が来ているぞ」
「ごらんよ、あの金色の髪を…」
「目はナイルのように青い、それになんて白い肌!」

偉大なるヒッタイト帝国の王女ミタムンを寄せつけず、結婚が決まっていた姉アイシスをも退けてまでメンフィス王が熱愛しているのは、どのような娘なのか……




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