novel 1 


□愛の紋章 5
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 18 流愛 A



テーベの王宮で、会見に応じるというヒッタイトからの返書を読み、アイシスはメンフィスに詰め寄った。
「ヒッタイトの王子と会見するなど危険すぎます。ヒッタイトは先の戦での敗北を恨んでいる。きっとあなたを殺そうとするわ」
「私は争うつもりはない。これは和平交渉だ」
「王女の死は我がエジプトに関わりなき事件なのに、なぜこちらから和平を申し出ねばならぬのです?」
「この誤解のために諍いを続けているのは双方の利益とならぬ。早いところ解決を図らねば」
「しかし、どのように?」
「我がエジプトは断じて王女を殺害などしておらぬ。それをはっきりと申し述べる。だが王女は私の即位式のためにこのテーベに来訪し、その帰路で不幸な災難に遭った。そのことについては遺憾に思う。その意を伝える」
「……それだけでヒッタイト側が納得するとは思えませぬ」
「ヒッタイト側が納得するかはわからぬ。だが我が国の立場・主張を明確にするのだ。王女殺害の疑惑について、エジプトは完全なる潔白であることを断言し、王女の死に対して心から哀悼の意を表明する。それ以上でもそれ以下でもない」
「ヒッタイトが納得しない場合は?」
「その場合は───再び戦となるだろう。そうなればもはや致し方ない。だが今は……」
メンフィスは言葉を切り、思慮深いまなざしで言った。
「少なくとも今は戦がやりにくい。キャロルがおらず、皆が気力を喪失している今は……。それに私とても、戦は避けたい。キャロルが帰ってきた時、エジプト国内をヒッタイトとの対立が解消した平和な状況にしておきたいのだ」
「な……」
アイシスは一瞬、絶句した。
「なんですって、メンフィス、まだそんなことを? キャロルはこのエジプトの地を去ったのよ。もう戻ってきやしないのよ。あなたを裏切って逃げていったあんな娘、いいかげんにあきらめたらどうなの!?」
アイシスの怒声を、メンフィスは聞いていない。

「両国の軋轢が収まったとなれば、周辺諸国も落ち着きを見せよう。キャロルが帰ってきたら、戦乱の世は終わったのだと真っ先に教えてやりたい。キャロルを喜ばせ、安心させてやってから、妃に迎えたい」
「メンフィス…!」

メンフィスは相変わらずキャロルのことを考えていた。いや、キャロルのことしか考えていなかった。
彼はキャロルを失ったままでいるつもりはない。そのうち彼女が自分のもとへ帰ってくると信じている。必ず取り戻す気でいる。
彼の思考、言葉、行動、すべてがキャロルへの想いで作られている!

……アイシスの体内で、暗黒色の塊が生まれた。
それはどくどくと脈を打ちながら急激に成長し、とぐろを巻く憎悪の大蛇へと変化していった。

わなわなと立ちつくすアイシスにかまわず、メンフィスは次々と指示を出した。
「イムホテップ、ヒッタイトにひそませている間者に指令を出せ。選りすぐりの兵士達に商人に身をやつさせ、ヒッタイトに潜入させよ。さらに二万の兵を国境に集め、待機させておけ」
「心得ましてございます。───して、王に同行させる兵の数は?」
「側近の兵は百でよい。目的は和平を結ぶことであり、争う意志はないという姿勢をヒッタイトに見せる」
「では、わたくしとわたくしの部隊をおそばに」
「ぼくもお連れください、王!」
忠実なる二人の臣下が、同時に進み出る。
「よし、ではミヌーエ、ウナス、さっそく出立の準備をせよ」
「ははっ!」
にわかに慌ただしくなる王宮内……

メンフィスは玉座に腰かけると、凛とした口調で述べた。
「イムホテップ、この和平会談、私は必ず成功させる。戦のない平和な世を望み、常に民の幸せを願っていた、我が妃キャロルのために」
その誇り高き秀麗な横顔に名君であった亡き父王の面影を見とめ、宰相は胸を熱くして述べた。
「王のお心はきっと通じ、キャロル様は再びお姿を現してくださりましょう。どうかくれぐれもお気をつけて───無事にお帰りなされませい」

その時、アイシスが顔を上げた。
漆黒の瞳に異様な光を浮かべながら、女王は言った。
「メンフィス、会見にはわたくしも同行します」

ふたつの国に、新たな風が吹き込もうとしていた。




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