From this day

□クロロからの選択
1ページ/2ページ


「おはようクロロ。プリンあるよ」
「ああ、おはよう。調子はどうだ?」
 翌日、一ヶ月ぶりだというプリンに顔を綻ばせるクロロと、久方振りな挨拶をした。昨夜つけた所有印はクロロの胸元まで続いている。筋肉質すぎて非常に難しくもあったが、そこはクロロ指導の下、上手いこと花開かせたのだ。当初あったあの印など今やどこかもわからない。くすぐったく眺める私に、クロロはクイッと襟元を下げ鎖骨を見せつけてくる。まるで、オレはお前のものだとでもいうように。
「休みたくなっちゃう……」
「休めよ。どうせ捨てる世界なんだ、気にかける必要などないだろう?」
「え……?」
 身支度を始める私を後ろから包み込み、クロロはうなじへと擦り寄ってきた。意味がわからず振り向いた先には、極上の色気を纏った見慣れた笑みがある。それが余計にこわくて、私は何も紡げなかったのに、クロロは気に止めることもなく続けた。
「いい頃合いだ。そろそろ日取りを決めないか」
 あちらの世界に渡る日を。その台詞に呼吸が止まり、爪先から凍えていくのがわかった。クロロの一言一言をゆっくりと反芻し、そして完全に血の気が引いた。
「どうした?」
 背中に流れた嫌な汗は今の私の心情を如実に表していた。クロロの前で愚かにも立ち尽くす、この私の。触れ合っている、この、状態で。
「あ……な、なんでも……」
 こんな、こんなことってあるのだろうか。私は覚悟していた。確かに覚悟していたはずなのに、この世界から自分の存在がなくなる。そう意識した途端、身体が恐怖に震えて止まらなくなってしまったのだ。今までは「クロロ好き」「ずっと一緒にいたい」なんて、そんな盲目的な恋をしてきたわけだけど、いざ「じゃあいつにしようか」と問われた時、私は自分がこの世界を捨てられないのだと知った。昨日は、あんなにもお互い求め合ったのに。
「失踪扱いは何かと面倒だろう? オレが上手く偽装してやるよ」
 お前の死体をな。そう付け加えられ、ゴクンと唾を飲み込んだ。クロロは疑いもしていない。私が躊躇している、なんて。
「お前なりに別れの準備もあるだろう。何日あれば足りる?」
「っ、私、は……」
 口が渇いて言葉が出ない。これほど性急に答えを求められるなんて、思いもしていなかったから。確かに、戻ることなど容易ではない。容易ではないが、決してできなくはないのだ。ならば頻繁に戻れぬ理由など外国に越すとでも言ってしまえばいいではないか。クロロの実力ならばなんだってできるだろうに、なぜわざわざこの地を捨てる必要性が生まれてくるのか。そもそもクロロは私を連れていった後、一体どうするつもりなのだろう。旅団に入れるなど、冗談で言っていたのではないのか。私が入って、人殺し、を?
「どうした、こんなに汗を掻いて」
 ねっとりと首筋を舐められて、咄嗟の悲鳴を飲み込むことだけに神経を集中させた。だから、震えた足など目に見えて知られ、クロロは声を押し殺すようにして耳元で笑う。一段と下げられたその声色は、嬉々として鼓膜を犯した。
「残念だが、もう手遅れだ」
「な、にが……?」
「欲しいものは必ず手に入れる。いくらお前が拒もうとも」
 もう、手放す気はない。
 意図して吐息を吹きかけられ、腰を抜かしながらその場にへたりこんだ。目線を合わせるようにしゃがむクロロの一連の動作を目で追っていると、拭われた頬に己が泣いていたのだと知る。
「一ヶ月あれば十分か?」
 容赦のない声。緩く首を振る私を見つめ、親指の腹が唇をなぞる。
「そうか、ならいつまで待てばいい」
 近いうちに必ず。そう答えるのが精一杯だった。

 *

 その日以来、あからさまにクロロを避けるようになってしまった。元々水回りや食事は自分だけの空間だ。お風呂も格段に長くなったし、寝る時ですらリビングを使用した。これでは問題の先延ばしだ。頭ではそうわかってはいるのに、どうしてもクロロに会い現実を突きつけられるのが私は恐ろしかった。
 夕食後、家族と一緒になってぼんやりとテレビを観ていた私のケータイが突然震え出す。着信はクロロだった。いつまでも出ない私に痺れを切らしたのか、今度はメールが一通。
『来い』
 この一言。この、たった一言が本当にこわかった。それでも心臓をバクバクさせながらケータイを握り締め固まっている私に、ぞわっと背筋が粟立つ奇妙な感覚。原因など知る由もない家族たちは一瞬何事だろうと視線を宙に泳がせていたが、すぐにまた興味をなくし団欒に戻る。この現象の要因は私だけが知っていた。クロロが円を使ったのだ。いくら待っても反応のない私に、直接プレッシャーを与えてきた。こわい。無理だ。どうしよう。決められない。私は、この生活を捨てられない。どうしよう。どうしよう。どうしよう。

次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ