From this day

□クロロがいる部屋
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 この場を離れるわけにはいかない。
 つい五時間程前、確かにクロロはそう言っていたはずなのだが未だこの部屋に彼の姿というものはない。何度も窓辺によっては暗い夜道の向こう側へと必死に目を凝らす己の、なんて滑稽なことか。
 過ぎた妄想だと指摘されたなら甘んじて受け入れる状態である程度には、あれほど濃厚だったクロロの痕跡など最早どこにもなくまるで白昼夢のようだ。しかし、平面でしか見ることのできなかった彼が現実に息づいているという奇跡は紛れもなくあの瞬間に存在していた。
 思い返す度に全身が総毛立つ。あの張りつめた眼差しも、泣きたくなるほどの声色も、クロロを構成するその全てがこんなにも愛おしくてたまらないのだ。
 時刻は午前零時を回り、高揚した身であるにもかかわらず次第に瞼も重くなってくる。ベッドに横たわり、少しのつもりで手放した意識が
「嘘⁉」
 見事に夜を越えていたことに驚き飛び起きた。
 開けっぱなしのカーテンの向こう側には美しい朝焼けが見えたが、正直今はそれどころではない。
「……っ」
 すぐ隣にある気配に呼吸が止まり、思いきり後ずさった勢いで後頭部を強打した。そこには、全身黒づくめの見慣れぬ服装をした男が、ベッドに腰掛け読書をしていた姿があったのだ。誰であるかなど問わずともわかる、クロロだ。クロロが帰ってきてくれたのだ。
 様々な言葉が喉元から出かかるも、その全てを飲み込み整理できずにいる脳内は混乱をきたす。その間、クロロは一度としてこちらを見ることはない。彼がページをめくる音、ただそれだけが静かに響き渡っていた。
 まずは私が冷静になるべきだ。二度三度と胸元を叩きなんとか落ち着きを取り戻すも、オールバックの解かれた艶のある黒髪を見上げるだけで心臓は破裂してしまいそうだった。
 ベッドの上には、見覚えのない文芸文庫本に加え用途の異なる辞書が多数積まれている。少しだけ崩れていたのは、おそらく大きく仰け反った私のせいであろう。そして壁際にはブランドのロゴがあしらわれた紙袋と、その中からはコートのファーらしきものが見え隠れしていた。
 この世界の貨幣など所持していないはずではあるが、そこはクロロだ。考えるまでもなく容易に想像はつく。本職であるクロロ相手に盗み殺し全般への控えなど乞うことすらできないが、あちらに戻る手立てがない以上今はまだ穏便に済ませていただきたいというのがこちら側の本音ではあった。
 ベッドから降りようと徐に身を乗り出し、そこでようやくクロロの足元が見えて私は心底驚く。靴を、履いていなかったのだ。つまりそれはこの土地の習慣に合わせてくれたということを意味している。あのクロロが、だ。紙袋の死角に置かれたブーツと革靴に、言いようのない想いが膨れ上がっていった。
「あ、の……」
「……」
「あの……クロロさん……」
「なんだ」
「ありがとうございます……」
 ページをめくる手が止まり、クロロが僅かに振り向いた気がした。実際には、その横顔すらベッドの上からではまともに見ることなどできはしない。
「えっと……クロロさんが着ていた服はこちらでクリーニングに出してもよろしいですか……?」
「……構わない」
「あ、あとはその……本当に……この部屋で暮らす感じで……?」
「昨夜話した通りだ」
「な、ならあの……できれば色々穏便に……」
「   」
「え?」
 ドキリとした。突然クロロが私の名前を読んだから。
「誰よりオレを知る、お前がそれを言うのか?」
 さらりとしたクロロの前髪が揺れ、ベッドを降りた私とここでようやく視線が合わさった。途端に爪先から熱が這い上がり緊張で手が汗ばんでいく。クロロが愛しくて、本当に本当に愛しすぎて死んでしまいそうだった。
「それと、一つオレからの助言だ」
 クロロは一度本を閉じ、その長い足を優雅に組み上げる。膝に肘を乗せ、私を上目で見上げるようにこう言った。
「素を出すなら早い方がいい」
 ふ、と笑みをこぼし、このとき私は初めてクロロの表情というものに触れた。なぜ今その顔なのか。いつの日か、あなたの口から教えてもらえる日がくるのだろうか。
「お前とは、長い付き合いになりそうだからな」
 これがクロロと出逢い二日目のことだ。
 例えばもしもこの先ずっと彼がこの場に留まり続けてくれたなら、この関係性も少しは変わってくるのだろうか。




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