IVO 国際バース機構

□いつか、晴れた日の庭で
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 ―――いしぃきぃがぁないあいぃだぁはぁ、げっけぇのぉおせぇわぁがぁたいへぇんだぁからぁねぇ。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
 月経のお世話。
(先生ぇぇえ! 異性の前でその説明は余計ですぅぅぅううう……!)
 ホッとしたのも束の間、ある意味医者らしいデリカシーのない説明に襲われて、千里はバルッダサーレの腕の中で撃沈したのだった。
『……先生』
 真っ赤になったかと思うと気を失ってしまった千里をあらためて横たえ、ニコロをジロリと睨む。
『「十三歳」の子供が相手なんですから、話題には気をつけて下さい』
『ははは。いや、すまないね』
 悪びれるでもなく笑った医師は、だがすぐに表情をあらためてドアの方へと目をやった。
 場所を変えよう、という意図を酌んで、バルッダサーレは彼を階下のサロンの一つへ案内した。手ずからワインをサーブして向かい合えば、グラスを口にしたニコロが思わしげに吐息する。
『私はバース科医で心理の専門家じゃないが、まあ、解離性健忘だろうな、あれは』
 強いストレスの原因となった出来事や感情が部分的、あるいは全体的に記憶から抜け落ちる記憶障害。
『…つまり、千里は五年半もの間の出来事をなかったことにした、ということですか』
『恐らく』
 今の千里は十八歳。何事もなければ、二ヶ月後には日本の高校を卒業する予定であったのだが。半年前、彼は番と思い定めた婚約者を失った。
 そのアルファと出逢ったのが、十三歳の年の八月。他でもない、このラガーディア邸で開かれた茶会だったのだ。
 七月までの記憶しかないというなら、出逢いそのものをなかったことにしたのだろう。
(…ざまぁないな、レジナルド)
 金糸の髪とエメラルドの瞳。アルファにしては繊弱な印象の、しかし夢のように美しい青年を思い浮かべて胸の裡に吐き捨てる。
 必ず幸せにする、と。兄分でしかない自分にまで宣言したからこそ、諸々を呑み込んで愛しいオメガの恋を見守ってきたのに。
(…………いや、恨み言はいい)
 腹の底のムカつきを吐息で逃し、ワインを呷る。
『先生。今後、我々はどう対応すれば?』
 いま大切なのは、千里のために何ができるか、だ。
『そうさな。まずは、部屋のカレンダーやら日付けのわかる時計やらスマホやらを遠ざけることか。記憶をなくすほどの何事かがあった、と思わせるにはまだ早かろう』
 つまり今を五年前の一月として、「十三歳の千里」に寄り添うということである。
『家人にも、彼の家族にも徹底させます』
『うむ。とにかく、まずは体力の回復が先だ』
『はい……』
 抱きしめて痛感した。点滴で命を繋いできた千里は、この半年ですっかり痩せ衰えてしまった。
『バルッダサーレ』
 苦く奥歯を噛みしめた時、ニコロが軽く肩を叩いた。
『センリは目を覚ました。それは他でもない、彼に生きる意思があるということだ』
 契約前とは言え、番を失えばオメガは絶望から廃人と化し衰弱死することもある。
 その一歩手前までいって、しかし千里は記憶をぶった切ってまで絶望の淵から這い上がってきた。
『あの子は強いよ。起きてしまったことを悔やむより、我々は彼のこれからを考えてやろう』
 つい、後悔に囚われそうになる。それを振り切って、バルッダサーレは大きく頷いた。

 車を走らせれば、大都市ミラノから二時間もせず雄大なイタリアアルプス南麓の沃野に辿り着く。
 森と湖で知られるこの地方はヨーロッパ屈指のリゾート地だ。
 国内はもとよりヨーロッパ各地から避暑にスキーにと訪れたアッパークラスの人々やセレブリティをもてなすのは、コマの旧領主であり今も名士として残るラガーディア家の謂わば務めであった。
「…クソ喰らえとは思うけどな」
 アルファにしては華のない面にどうにか笑みを貼りつけながらバルッダサーレがボソッと呟けば、エスコートしていた千里が小さく吹き出した。
「サーレ兄さん、日本語になってるよ」
 六年前の夏、父に代わって初めて茶会を主催した二十歳の時のことである。
 建てられたのは十七世紀末。バロック様式の荘厳な屋敷と、木々の合間から湖面のきらめきを望む後庭でのブッフェパーティは華やかなさざめきに満ちていた。招待客は豪華なラガーディア邸の茶会や夜会を毎年の楽しみにしている一家もあれば、むろんこの日が初めてという家もある。
「愚痴だからな。英語やイタリア語じゃこぼせないだろ」
「あはは。さすが最高難易度言語だよね。内緒話にはもってこいだ」
「まったくクレイジーだよ。喋るだけでも一苦労なのに、一瞬で三〇〇〇個以上のけったいな図形を判別しなきゃならんとか暗号か」
「それ図形じゃなくて漢字と仮名文字っていうんだ。サーレ兄さん、普通に使いこなしてるけどね?」
「何なら現国は得意だったぞ」
 回転のいい弟分のお陰でポンポンと軽口が弾む―――思いのほか緊張していたようで、内心少しばかり恥ずかしい。
(まあ、夜会と違ってダンスがないだけ遥かにマシか)
 グラスを片手に歓談する招待客の合間を漂って挨拶に回りながら、バルッダサーレはそっと息を逃した。
 何しろ、
『やれやれ…今夜もわたしの息子は踊らないようだね』
『無茶言わんでくれよ、父さん。声をかけたところで、不細工アルファじゃご令嬢方も迷惑だろうさ』
『誰が不細工だって? 十分整ってるだろう、華がないだけで』
 目許なんてわたしにそっくりだし。と毎度のこと笑顔で圧力をかけてくる父フランチェスカは怜悧な美貌のアルファ女性である。今は亡き母のアンナ・マリアは、愛らしいことこの上ない可憐なオメガ女性であった。……美女と美女とのかけ合わせでも、必ずしも美貌の子供が生まれるとは限らないといういい例が自分だろうと思う。
 しかし、この平凡な面立ちのお陰で幼い頃からさんざんアルファに見えないと論われてきた一方、おもねる連中の何と多かったことか。殊に五歳で母を亡くしたあとなど、娘を使って傷心につけ入ろうとする輩の多さにブチ切れた父が、ヴァレット一人をつけただけの彼を日本の親友の許へ送り出してしまったほどだ。
 社交の場とは値踏みの場だとは解っていても、幼い頃からあまりにもいい思い出がなさすぎた。
「サーレ兄さん」
 聞こえぬようにこぼしたはずの吐息は、それでも気づかれてしまったらしい。見上げてきた千里は、オメガらしい可憐な面に、おっとりと優しい微笑みを浮かべた。
「大丈夫。もしまた兄さんを貶すような人がいたら、僕が一言に対して百だって兄さんのいい所を並べてあげる」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
 じわり、と。胸の底が温かくなる。
 当たり前だ。
 生まれてこの方、自分の弟として育ってきた少年の無償の愛情は、離れて暮らすようになった今でもこうして傷ついたアルファの矜持をそっと労ってくれるのだから。
「…ああ、そうだな。ありがとうビーノ」
「ふふふ。それに、僕だけじゃないよ? 今頃あの辺で、千佳とヴィンチがサーレ兄さんの自慢してると思う」
 このバカンスシーズンに先駆け、千佳の中等部進学を機に正式に婚約した二人の周りには祝福の人だかりができていた。
 日本で暮らす間も絶えず連絡を取り合っていた親友と、生まれた時から見守ってきた可愛い妹分とが互いに寄り添い合う姿は眩くて、如何に仏頂面になりがちなバルッダサーレの頬とても、こればかりは込み上げる幸福な気持ちに自然と弛もうというものである。
「そりゃあ、頼もしいな」
「でしょ? 兄さんのこと碌に知らない人の悪口になんか、傷つく必要ないんだよ」
 本能的に依頼心の強いオメガの精神性は脆弱だ。常に心のどこかで他者の庇護を求めていると言っていい。
 だが、決して守られるだけの存在ではない。
 互いに信頼し合えるシスターフッドがあれば、時にアルファをも守らんとするほどに強くあれるのだ。
 愛さずに、いらるわけがない。
 家族としての親愛が、その一線を越えたのははたしていつのことだったろうか。
 むろん、まだ幼い千里にその想いを押しつけるつもりはない。
 胸に秘めつつ、しかしクソ喰らえとまで思う社交の場を笑って挨拶に回れるのは、間違いなく自分に寄り添ってくれる弟分へのこの愛しみがあるからだ。
 幸福な時間だった。
 こういう時間が、これからもまだ続くのだとこの時の彼はわけもなくそう思っていたのだが。
「わあ、華やかだね」
 デザートのブースに程近い場所だった。歳頃の少女たちが、アルファと思しき背の高い男性を取り囲んで熱心に話しかけている。美しい金糸の髪が印象的だが、こちらからでは後ろ姿で一見では誰とも判らない。
「金髪か…リストの中に、何人かいたが…」
 思案に沈みかけた時、金糸の髪が揺れてこちらを振り返った。
 少し困っていたのだろう。助けを探すように彷徨わせたエメラルドの瞳がバルッダサーレを見つけ、ふと彼にエスコートされる千里と目が合い―――固まる。すぐ隣から、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。
 千里が十三歳、レジナルドが十七歳。
 二人が恋に落ち、バルッダサーレが唐突に恋を失くした瞬間だった。
(―――あの頃は、まさかこんな事態に陥るとは思いもしなかったがな)
 大学在学中から「ラガーディア」本社の業務に携わり、常務となった今は仕事の殆どがリモートで済む。離れの一室を書斎代わりにパソコンを叩きながら、思わず深々と溜め息をついた。
 千里が目覚めて三日、薄いスープながら経口食を摂り始めている。顔色はまだいいとは言えないものの、大きな憂いが記憶から抜け落ちていることもあってか表情は明るい。
 今朝などは、
「もぉ、くりすます、きゅうか、おわ…ちゃたもん、ねぇ。さーれ、にぃさ、みらの、かえっちゃう、のかぁ…」
 体に気をつけてね、と。退行した拙い口振りで気遣ってくれさえした。
 実際のバルッダサーレはこの通りミラノどころか同じ離れの中で仕事をしているのだが、千里の中の彼は大学に通うためあちらの別邸に住んでいることになっている。

 
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