やさしいせかい

□tefsir al-ahlam
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 夫が国家に拘束されている妻たちと、国王夫妻に無礼を働いて謹慎している娘の母親。どちらも公の場には出られない。

 それは親友も理解しているのだろう、アディーバもこっくりと頷く。

 今この部屋にいるのは蓮と彼女、母たちと五人の侍女のみ。やはり確認のように視線を廻らすと、アディーバがしっかりと彼に視点を据えた。

「報道以上の情報が王室には入ってると思うけど、シスターフッドとしてはその辺り、ちゃんと知っておきたいわ」

 話せる? と訊く親友に、一度だけハーレフを振り返る。無言で小さく頷く老侍女頭を見留め、蓮もアディーバの黒瞳をしっかりと見つめ返した。

「今のところ判ってるのは、アブドル・マジード殿下は今回の事件に関わってはいないってこと」

 彼の持つドラッグストアチェーンが「黄金の三日月地帯」で取引されるΩに必要なヒート抑制剤を詐取するため、企業の末端を乗っ取られる形で裏社会の犯罪組織に利用されたこと。彼や彼の母親が王族でありながらオメガフォビアである事実を、組織が強調して世に伝わるよう長年に亘って工作してきたこと。それによって、彼の王位継承権に瑕疵をつけようとしたこと。

「うまいこと支族会議で次期国王に相応しくないと判断されれば、陛下の任期が伸びるから。バースの元首がいる民主主義国では、移住者も含めて活動的なΩがより増える。抑制剤の流通量がそれに比例するのは、データに見る通りだしね」

「より長く、より多く詐取できるってことね…」

 公式には「なかったこと」になっている過去の暗殺事件は伏せつつ、アブドル・マジードに降りかかった悲運の要点を明かせば親友は苦い顔で呻いた。

 人である以上、嫌いな者がいるのは当然のこと。母のアシュラフ夫人を野放しにした罪は確かに大きいが、しかしオメガフォビアを匂わせながらもアブドル・マジードが公の場でそれをはっきりと露わにしたことはない。

 にも関わらず市井に広まった彼の印象は、アシュラフ夫人とともに残忍な疑惑にまみれて最悪であった。

 そう。

 恐ろしいのは、操作された印象に信憑性を持たせるため、そのためだけに、実際に三人もの人が暗殺されたということだ。

「っ……」

 背筋を走った怖気に、蓮はふるりと身を震わせた。

「……より詳しいことは、またおいおい話すよ」

「ええ、そうね。怖い話だったでしょう、疲れているのにありがとう」

 顔色が冴えなかったのだろう。アディーバが労るようにそっと頬を撫でてくれる。と、そのタイミングでナディームたちを伴ったアインと要、教授とアディーバの父ムスタファが控えの間に戻ってきた。

「アディーバ嬢。レンのそばにいてくれてありがとう。私たちの瑠璃宮に部屋を用意させたから、ご両親と一緒にどうかゆっくりしてほしい」

「ありがとう存じます、陛下」

 今日から三日間は祝日となっていて、王宮前広場を始めワーハ・ヤシュムの主だった広場では王室から食事が振る舞われる。

 つい三ヶ月前には、親友をより確固たるシスターフッドとするためにこの祝日を利用しようとしていたのに。

(まさか自分が祝われる側になるなんて……)

 今さらだが、とても不思議な気分であった。しかしどこか懐かしい感慨にも、一度頭をもたげた怯えは簡単には拭えない。

「教授と、義父上と義母上にも滞在して頂くから、今までの分たくさん甘えさせて頂くといい」

 愛しみのこもった夫の微笑みに、蓮は肚の底にわだかまる怯えを堪えてしっかりと頷いた。

 その忍耐がふっつりと切れたのは、侍従に親しい人たちを部屋へ案内させ、夫夫の居間に踏み入れた時だ。

「レン……!」

 唐突にへたり込んだ彼を、アインが咄嗟に抱きとめる。

「お疲れ様、レン。本当によく頑張ったね」

「…は、ぃ。さす、がに、ちょと、つかれ、まし、た……」

 すぐにしっかりと抱きしめられたが、その時にはもう退行が始まっていた。「ちょっとどころではないな」と労しげに苦笑う夫にハーレフがアディーバとの経緯をそっと耳打ちすると、抱きしめる腕に力が込められる。

「なるほど、だから顔色が悪かったのか。……でも、シスターフッドへの務めをちゃんと果たせて偉かったね」

 そっと鼻先を摩りつけられれば、甘苦いモカが香ってふにゃりと頬が弛む。

「いい、にお、い…」

「ふふ、あなたもね。……後のことは私がするよ。レンのキモノだけ、ちゃんと手入れをしておくれ」 

 蓮が大礼服の胸に摩り寄ると、アインは侍女たちにそう言って彼を寝室へと運んだ。

  *  *  *

 艶やかな緋色の打掛だけは、丁寧にソファへ広げる。

 番の華奢な体を包むすべての纏いを剥ぎ取り、アインは自らも大礼服を放った。

 ともに泡の立つ湯につかり、露わな項に浮かび上がったまだ赤い噛み痕を撫でれば、妻はうっとりと微笑む。真っ赤になって羞じらう常とは比べものにならないほど素直な様が、堪えた怯えの強さを思わせて胸の底が引き絞られるようだ。

「本当にお疲れ様だったね。このまま眠ってしまってもいいよ」

 優しく丹念に化粧を落としてやる手の中で、だが蓮は弛く頭を振った。

「や…。も、ちょと、おは…なし、した、い」

 確かに、今日は一緒にいる時間こそいつもより長かったが。常に聖杯番や侍従、あるいは王族支族の誰かしらがそばにいる状態では寛げるわけもない。

 すでに夜も更けている。

 こんな時間まで、彼は「王妃」という公の体面を保っていたのだ。

 そう思えば、いっそう番への愛おしさが込み上げた。

 すでに慣れた手つきで甲斐甲斐しく世話を焼き、ベッドの帷を下ろす頃には、蓮はすっかり身を預けきっていた。

「…あの、ね」

 それでも、意識をΩに明け渡すまいと堪えているらしい。素膚の胸にうっとりと頬ずりをしながら稚い口振りで切り出す。

「あでぃーば、に、あぶど、る・まじ…ど、でんか、の、こと、せつめ…しまし、た。ま…だ、はなせ、て、な…こと、あり、ま…けど」

「うん、それは追々ね。私から話したっていい」

 過去の暗殺事件に触れないよう意識することは、むしろその恐ろしい出来事を強く思い出させただろう。

 あの日、礼拝堂前で捕らえた潜入者はやはり件の侍医であった。

 そもそもは、ラヒム王の持つ事業の継承者であるアブドル・マジードの為人を観察し、いずれ組織に益するよう少年のうちから誘導すべく侍医職を派遣する王立病院へ潜入したという。

 しかしほどなくしてラヒム王がΩの王妃を迎え、αの王子が生まれた。

 これによって、組織の方針が変わったのだ。

 長い時間をかけ、出稼ぎ労働者を使って少しずつドラッグストアチェーンの末端を乗っ取り、Ωのヒート抑制剤を詐取しながらシーリーン妃とアイン・マァ王子に対するアシュラフ母子の憎悪を煽る。

 過激な言動の多いアシュラフ夫人を肯定せずとも否定はしない、おっとりとした内科医が彼女の気に入りになるのに時間はかからなかったらしい。

 喚き散らされるアシュラフ夫人の望みをひっそりと叶え、それによってじわじわと夫人の首を絞めていく。

 王室が不幸に見舞われるたび、世間では彼女とアブドル・マジードへの疑念と悪評が高まり、アインへの同情が募った。

 そう仕向けた。

 しかし目的はほぼ達成したものの、思惑以上にアシュラフ夫人に気に入られたことが侍医に災いしたのだ。

 ーーーあれほど危ない橋を渡ったというのにな……。

 まったく別人としての身分を証明するパスポートをまで手に入れながら、王宮からの離脱に失敗した侍医は情報局の取り調べに皮肉な笑みを浮かべていたという。

「レン……」

 せっかく寛いでいた体が強ばるのを感じて、アインはそっと、だが確かに寄り添っていると判るよう番の華奢なその身を抱きしめた。

 潜入者は、侍医一人。

 王宮で職を得ることは簡単ではない。だからこそ、優秀な人材を得るために外国人医師にも広く門戸が開かれていた王立病院が狙われたのであろうが。医師という職業人への信頼が著しく損なわれた事案でもあり、今後はこれも見直しがされる。

「色々と心配だろうけど、手はずは整えたからどうか安心しておくれ」

 最たる憂慮は取り払われた。

 とは言え、バースにとってシスターフッドは親族にも等しい。それが王妃の共助協定者となれば、安全への配慮は必須だ。

 今日の饗宴の儀への参列から、アディーバ一家には私服による近衛歩兵の直近警護が配置された。アディーバ本人には研修生の態で女性兵が大学内でも警護に当たる。父のムスタファはそも警護の厚い極東マネージャー付きへ、母ライラは通訳案内士の研修官として本庁詰めへと、職務中も警護しやすい部署への異動がすでに決まっていた。

「あし、た、せんせ…に、おれぃ、いわな、きゃ、です…ね。あと、あり、きょう、にも」

「そうだね。まだしばらく国内にいるそうだから、アリにはこちらに来てもらおう」

 そう。こうした手配が滞りなく済んだのは、教授や夫妻の上司アリ卿による協力が大きい。

「ふふふ。れお…ん、と、なかよ、く、なりま、した」

「それはよかった。明るくて、楽しい人だろう?」

「は、い。いとこ、の、おねぃ…さま、たち、にも、い…ぱい、よく、して、もら…ました、よ」

「叔父上も仰っていたけど、王族のΩは強いよ。従姉殿たちはみな姉妹仲もとてもいい。たくさん頼っていいからね」

 今日を境に、蓮のシスターフッドは大きく拡がった。

「大丈夫。あなたも私も、独りではないよ」

 たくさんの人が手を差し伸べてくれる。

 頷きつつ、しかし未だ怯えの拭いきれない番を抱きしめながら、アインは自らにも言い聞かせるよう囁いた。

「……そう言えば、レンは聞いたかい?」

「な、にを…?」

 そろそろと顔を上げた妻の額に、接吻けを落とす。

 
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