やさしいせかい
□tefsir al-ahlam
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何しろ彼の愛息が立ったのは、ただそこにあるだけでテロの標的にされる王妃という地位だ。心配の種は尽きない。が、大きな試練にこそ闘志を燃やすのがαというバースの本能であった。
とは言え、心苦しいことに変わりはない。
「今のところ、十年を目処にしています」
アラブ社会では、兄弟の権利は一律に公平とされる。このため周辺国と同じく、イスマイリア王室においても王子たちの継承権が確実に行使されるよう国王には任期があった。
アインの任期は十年。
だが兄のアブドル・マジードは現在謹慎中であり、今後に開かれる支族会議において王位継承権の保持を審議される身であった。
自分の任期が延びるかも知れない。
それが賊の思惑の一つであったと彼が知ったのは、つい先頃のことである。
思わず苦い顔をしてしまったのが、自分でもわかった。
「陛下。忸怩たる思いもおありでしょうが」
対して、静かな面持ちを取り戻した要が恭しく礼をとる。
「すでに賊は狩られ、陰謀は挫かれました」
だから前を向け、と。口にされなかった言葉は眼差しに込められた。
義父として年長のαとして、愛息の番を支え、手を差し伸べる肚を決めた強い目だ。
「どうか蓮をよろしくお願いします」
「もちろんです、必ず守ります。義父上もどうか、未熟な私をお導き下さい」
「微力ながら、お支えいたしましょう」
真摯に誓う義父の手を、アインは感謝を込めて固く握った。
* * *
「ふふふ。本当に、なんてお可愛らしくていらっしゃるのかしら」
「妃殿下はもちろんアディーバさんも、お困りごとがありましたら何でも仰って下さいませね」
「そうですわ。公務もこなしておりましたけれど、わたくしたち降嫁した今でもビジネスの場に同伴されることがございますの。社交の経験も豊富でしてよ? 同じΩなんですもの、どうぞご遠慮なく。もちろん、βの母たちや他の姉妹たちも恃みになさって下さいませ。特にわたくしたちを支えてくれたβの姉妹たちは、アディーバさんには頼もしいアドバイザーになってくれましてよ」
任せてちょうだい。と、そちこちから声が上がる。
親族顔合わせの席では挨拶をもらうだけで話す機会はなく、より公式なラクス・シャルキーの観覧や食事会では降嫁した彼女たちの立場上列席してもらうことは叶わず。
結婚披露宴を兼ねた女性ばかりの歓談となって、待ってました! とばかりにアインの従姉たちは蓮と親友とを取り囲んだ。中心はΩの三人。残る六人は母親たちと同様に睦子とライラに寄り添ったり、支族の令夫人や令嬢たちに微笑みを向けながら、好奇心に目を輝かせる彼女らを牽制している。
「ふふふ。ありがとうございます、おねえさま方。後ほど、連絡先を交換して頂けますか?」
「もちろんですわ!」
「アディーバさんもぜひ!」
「あ、ありがとうございますっ……!」
先ほどまでの堂々とした様子はどこへやら。アディーバの声は裏返っていた。
(まあ、仕方ないよね……)
何しろ、相手は国内有数の大企業社主や諸侯の令夫人である元王女たちだ。普通の大学生ならまず知り合うことすらないはずの人たちから「ぜひ」と言われて緊張しないわけがない。蓮自身、もしアインと出逢う前にこんな機会があったなら、今の親友以上にガチガチになっていたことだろう。
だが、そのアインとの出逢いからしてとんでもなく衝撃的だった。更にそれからのおよそ三ヶ月という短い間に見聞きし体験したことは、あまりに「大学生・萩原 蓮」の日常とはかけ離れていたのだ。
「レンは何で平気なの〜⁉」
こっそり小声で悲鳴を上げるアディーバに、やはりこっそりと苦笑う。
「慣れた、かな?」
いや、麻痺したのかも知れないが。
「アディーバも慣れてね?」
「マーシャアッラー! わたしの親友がこんなにも図太い!」
最高! と小声で快哉を叫ぶ親友に小さく笑った。
Ωは弱いが、弱いからこその強かさも積極性も持っている。殊シスターフッドを得ることには、どんなΩもわりあい貪欲だ。だからこそ義理の従姉たちが手を差し伸べてくれるなら、蓮にその手を取らない選択肢はない。
顔を寄せ合って何やら話し合う王妃とそのシスターフッドを、従姉たちも国賓の令夫人たちも微笑ましげに見守っていた。
「さぁさ、外国のお客様にもあらためてご挨拶しないといけませんわ」
「でも、その前に」
「そうそう。妃殿下にはもう一人、頼もしいΩをお引き合わせしますわね」
レオン! と声をかけられたのは、支族の婦人たちの間で優美に立つ長身の青年だ。黒髪黒瞳は彼女らと変わらないが、色白の若い美貌が蓮と同じ東アジアの出と教える。
張 獅士 -チャン・シーシィ-。
前王家マアディン家の長子でイスマイリア観光公社の極東マネージャー、アリ・ムジタバー・イブン・ジャバード・アル・マアディニー卿のパートナーである、香港出身のファッションモデル。
それも、近ごろ四大ファッションウィークにデビューしたスーパーモデルだという。
「あらためて王妃様にご挨拶申し上げます。アリ卿の婚約者、張 獅士と申します。どうぞ令夫人方同様、お気軽にレオンとお呼び下さい」
たいそう流暢なアラビア語は、思いのほか低いしっとりと艶のある声で紡がれた。基本女性ばかりの集まりだからか、カラーはしていない。刺繍こそ豪奢だがほっそりとしたシンプルなジャラビーヤにスィルワールを合わせている辺りが、Ωながら男性であるとの主張を感じさせる。
「ご挨拶をありがとう、レオン。この時期モデルのあなたにはオンシーズンだそうですね。忙しい中、陛下のお祝いのために予定をあけて下さったこと感謝します」
「もったいないお言葉です」
「Ωの身で世界を舞台にする表現者。きっと並々ならない努力と苦労がおありでしょう。その強い心持ち、わたくしも見倣わせてもらいます」
「〜〜〜〜〜〜〜〜光栄に存じます。ぼ…私の仕事に支障がないのは、すべてアリ卿のお手配あってのことでございます」
「ええ、聞き及んでいます。ボディガードを兼ねた優秀な従者をお付けになっているそうですね。α並みの真摯な心遣いに、アリ卿のあなたへの慈しみの深さを感じました。あなたのいっそうの活躍を楽しみにしています。時々はわたくしを訪ねて、お仕事先での話を聞かせて下さいな」
やや照れを見せたレオンにアリ卿を褒めてみせれば、それはそれは嬉しそうに美しい貌をほころばせた。
「恐れながら王妃様はΩというのにたいへんなΩ誑しでいらっしゃる」
「ふふふ。これでも、おれはバースサーヴァントを目指してましたから」
素を見せる。と、レオンは目を円くした。
「わお。さすがバース先進国日本からの留学生って思ってたけど、プロだったんだね」
「まだ勉強中です。あなたのような世界を股にかけるΩ男性なんて身近にいないから、親友ともどもどうか仲好くして下さいね」
「ふふ、もちろんだよ」
よろしくね、アディーバ嬢。おっとりと艶っぽい微笑みでウィンクされた親友は、ほんのり頬を染めて照れながら握手の手を差し出した。
その後は従姉たちの言うとおり、彼女らの誘導の下、順に国賓の令夫人と和やかに歓談した。中には蓮と同じくΩ男性の夫人もいて、女性として扱われる彼の立場や美しい装いに気遣いを見せてくれたが、
「ふふふ。王妃というのはわたくしに与えられた役職であり、麗しい装いはその務めに必須の制服のようなものですから。こうすることで番を支えられるなら、いったい何の苦があるでしょう?」
おっとりと微笑うと、得心したように笑みを返してくれた。
一通り国外からの賓客と言葉を交わし終われば、いよいよ支族の婦人たちが集まり始める。
先立つこと、数時間前。
戴冠式及び立妃礼を終え、バルコニーからの歓喜に沸く市民との謁見。王族、支族への蓮の披露は、この次に行われる賓客の謁見が始まるまでの間に行われた。
現在王族と呼ばれているのは国王アインの下で王室を営む妃の蓮。王兄アブドル・マジードと四人の妻、八人の子供たち。アブドル・マジードの生母アシュラフ。副王ハーリドと妻たち、及びマフードフトである。マフードフトの九人の姉は降嫁によって、降嫁しなかった先王ラヒムの未亡人ワルダとヌールハーンはアインの即位によって王族の籍を外れた。
(……意外と少ない?)
アブドル・マジードの子供など日本ならそれだけで大家族なみの数だが、正殿の広間の一つに集まった大人数を目にして胸裡にそんなことを思った。この多くは前王家のマアディン家とタウフィーク家の主だった男たちとその妻子たちだ。二家にはしばらくαの男児が生まれなかったために先々代のアフマド王からイスハーク家へと王権が移った経緯がある。
つまりαがいなかったがゆえの繁栄であり、αの王が続いた王族の数が少ないのは道理と言えた。
むろんΩ性のシーリーン妃が早世しなければ、この十年余りにアインの弟妹が幾人も生まれていた可能性は高い。
それだけにいっそう国民の同情はアインへと集まり、彼を王宮から追い出したアシュラフ夫人とその王子アブドル・マジードへの不信と非難は募ったのだ。
「―――王兄殿下の令夫人方はいらっしゃらなかったわね?」
時おりアインの婚約者候補であったのだろう令嬢から刺すような視線を向けられた他は、支族の婦人たちとの歓談も和やかに済んだ。ラナーの淹れてくれたミントティーを楽しみながら、アディーバが確認のように言ったのは広間を辞してアインの戻りを待つ控えの間でのことである。
爽やかな香りの紅茶で喉を潤し、蓮は静かに頷いた。
「顔合わせの席ではご挨拶を頂いたよ。副王殿下の第四夫人からも」