やさしいせかい

□tefsir al-ahlam
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(返信は明日でいいって書いたのに)

 ホントにマメなんだから、と。相変わらず気にかけてくれている母国の担当官に呆れ半分、感謝半分で小さく微笑う。

 時刻は夕方の四時半すぎ。日本は夜の十時半すぎで、区役所はとっくに終業している時分である。きっと自宅で寛いでいただろうに、悪いことをしたな、とは思うものの、同性の友達から口説かれていた可能性に何となく落ち着かなくてメールしてしまった。

 Ωにとって、自治体の担当官はシスターフッドに次ぐ拠り所だ。

 様々な報告や相談についての手続きやアドバイス、トラブルへの対処。海外在住者へのそうしたサポートはもちろん渡航先の保健局に委託されているが、やはり慣れ親しんだ母国の担当官との絆は別格である。

 今回の蓮は特に何かを相談したわけではなかったが、そうした彼の信頼を知っているからこそ二神は早々に返信をくれたのだろう。

(ふふ、格好いいよなぁ)

 他者を思いやってしっかりと寄り添うことは、強くなければ出来ない。番持ちのΩならばヒートだけでなく精神面でも安定するが、二神はβ女性と結婚している番のいないフリーのΩだった。

(どんだけ鋼メンタルなの)

 憧れるなと言う方が無理だ。

 いずれ自分も、彼のようにΩの少年たちに寄り添いたかった。

(目指せ、メンタルゴリラ!)

 鋼は無理でもせめてゴリラくらいには、と。メールを見たまま、空いた手をグッと握って気合いを入れる。と、そのタイミングでトラムが幾つ目かの停留所に止まった。

 目の前のドアとともに、うっすらと金色を帯びた街並みが開ける。

 行き交う人波と車、白茶けた背の低い漆喰の家並みとガラス張りのビルとが入り雑じる眺めは、騒がしくもどこかのんびりとして何とも言えない異国情緒を湛えていた。が、再びトラムが走り出すと徐々に古い家並みは消え去り、未来的ですらあるビル群と整然とした区画の計画的な都市が現れてイスマイリアの豊かさをまざまざと見せつける。

 この豊かさを背景にした政治の安定が、中東でも一、二の高い治安を生み出しているのだ。加えて世俗主義により生活習慣上の宗教的タブーが刑罰の対象とならないことが、異文化圏からの渡航者や事業展開する海外企業への安心となっていた。

 そうでなければ、蓮がこうして一人で公共交通機関を利用するなどもってのほかだろう。そもそも他のバース家庭に比べてややスパルタ気味とは言え、αの父がΩの息子を番ともども呼び寄せるなどあり得ない。

 守るべき弱者。

 その視点が社会の根本にあるため、経済的な余裕とも相俟って街の人々もΩに対して親切だった。

(まあ、油断は禁物だけど―――)

 混み始めた車内に気を引き締めかけ、ふと目についた窓外のポスターに思考が止まる。

 真っ白な頭巾と長衣、金糸の縁取りもきらびやかなキャメルの外套―――この国ではなかなかお目にかかれない伝統装束を着た歳若い青年が、そのαにしてはめずらしい物柔らかな美貌でおっとりと微笑んでいた。

(アイン・マァ王子……)

 三ヶ月後に即位戴冠を控えた、イスマイリアの第一王太子。

 相変わらず溜め息が出るほど綺麗な人だよね、と。ひっそりと息を逃しながら目を戻す。蓮のセクシャリティはヘテロだが、一瞬ときめいてしまったのは許してほしいところである。何しろ、世界に残る王室の中でも特に美しいことで有名な王子様の一人だ。

 未だ十七歳。戴冠式にやっと完全太陰暦で十八歳になるという世界最年少国王の即位を祝うべく、各国の要人が国賓として招かれる。

 これを前にして斎戒月を迎えることもあり、すでに街頭のパトロールは強化されている。あと二週間もすれば一般人の入出国も規制されるのだが、ここ首都ワーハ・ヤシュムの中心街ではそちこちに王子のポスターやカウントダウンの標示が掲げられ、物々しさを感じさせない祝福ムードが漂っていた。

(アディーバん家、お祝いの日はどうするのかな…)

 即位戴冠式の日の夜は、恐らく市内に点在する大きな広場で王室からの食事の振る舞いがある。縁起物としてそれに与るのか、それとも食事に出かけるのか、自宅で祝うのか、あるいは普段通りに過ごすのか。

 他の友人たちも親切ではあったが。補佐官を目指すだけあってバースにより理解のあるアディーバは、すでに彼にとって学生生活に欠かすことの出来ないシスターフッドであった。

 出来れば、これを機に彼女の一家を食事に招待して家族ぐるみの付き合いに発展させたい。父も邦人会を通じて蓮と母のために人脈を拡げてくれてはいるものの、なにぶん愛あるスパルタ主義者だ、大学での共助環境はやはり自力で整えろと宣言されている。むろん、相談すれば色々と協力はしてくれるが。

(後でメッセ送ってみるか)

 三ヶ月も先のことながらまだまだ年内、鬼は笑うまい。何なら早々に先手を打って予定を押さえてしまえ。……胸の底で依頼心の強いΩの本能がそわそわと躊躇っているが、それを積極的な思考で上書きするのにももう慣れた。

(お祝い膳のメニューってどんなんだろ?)

 イフラース夫人に相談しよ。

「……え?」

 母のシャペロンを思い浮かべながら、ショッピングモール前の停留所でトラムを降りる。と、蓮はぎょっと目を剥いた。
 
 モールに隣接する一二〇階建ての複合ビル。オフィスやホテル、コンベンションホールが入るこのブルジュ・ウマルの六十五階以上に一般人の入館が出来ないのは、そこから上が萩原家も入居する分譲マンションだからだ。

 遮断機のないトラムの踏切を渡るまでもなく、モール外周に展開した警官の数が日頃のパトロールの域を超えていると判る。

(…え。おれ、この中を通って家に帰るの? もしかして職質とかされちゃう?)

 渡航して一年、こんなことは初めてで、さすがに緊張から心臓が跳ねた。恐らく顔も強張っていたのだろう。ビルへ向かうモール外縁部のアプローチを行く間にかなり警官の目を引いてしまったが、彼らは蓮のカラーに気づくなり軒並み笑顔で見送ってくれた。

『あー、緊張した。テナントに誰か偉い人でも来てるのかな…』

 ホッとして思わず日本語で呟いたのは、マンションのエントランスゲートに立つ馴染みの警備員を見た時だ。

 それを油断と言われれば、返す言葉もない。

 ガッ! と横方向への衝撃に襲われた瞬間、足が地を離れた。

『え』

「レンさん!?」

 悲鳴じみた警備員の声が呼ぶ。アプローチを彩る美しく手入れされた植栽は、決して見通しも悪くない。それでも生まれた死角から飛び出した何者かが、蓮の細い体を掻っ拐って走った。

(え、うそ)

 「誘拐」の二文字が脳裏を過る。途端、身の裡から起こった震えに歯の根が鳴った。

 在住外国人がターゲットになりやすいのは確かだ。しかし、まさか自分が。

(…やだ、そんな―――)

 込み上げた恐怖が脳髄を真っ白に染めかけた、その時。

 キィッ! と不快なブレーキ音が耳をつんざき、どこか緩慢な衝撃に揺さぶられた瞬間、彼の体は夕映えの舗道に投げ出されていた。

  *  *  *

 種苗会社はむろんのこと、大小の栽培機、ハウス資材、ソーラーシステム、空調や浄排水設備、果ては建設会社まで。「植物工場展」と銘打った見本市には、様々な設備メーカーが出展していた。

「まずはインフラの整ったこの国で、ということかな」

「恐らく」

 警護員に囲まれ、遠巻きにざわめく会場を見て回る。案内に立つ主催者の背を見ながらアインが小声で呟けば、アクバルも頷いた。

 水道事業の成功がイスマイリアにもたらしたものは緑だけではない。

 何しろ、中東地域において水の価値は石油よりも高いのだ。

 安全性の高い飲用・農業用水は高い治安とも相俟って、観光は元よりいっそう外国企業や国際会議の他、様々な催しの誘致に有利に働いた。

 多くの企業が中東での拠点をこの国に置き、新たなビジネスを展開している。屋内農業の設備を売り込むこの見本市もその一つである。

 その潤沢になった水資源と税収とによって砂漠の緑化事業、土壌の洗浄・改良による農地の拡大を進めるイスマイリアだが、これとは別に、数年前から幾つかの企業が主に富裕層を対象とした清潔で栄養価も高いという付加価値の高い野菜の生産工場を稼働させている。

 むろん割高だが生産ロスが少なく順当に業績を伸ばしつつあり、工場業務は比較的軽作業ということもあって、特にΩの雇用の創出にも繋がっていた。

 そのことに、少しばかりホッとする。

 イスマイリアに限らず、アラブ社会においてΩ性の人々は守られることに慣れすぎたあまり、就労上の責任を過度に恐れる傾向にあった。これがΩの社会進出をいっそう阻み、企業に課せられたバース雇用枠を満たせない原因にもなっているのだ。

(Ωはただ弱いだけの存在ではないのだけれど)

 王妃として公務を務めていた母の姿を知るアインにとって、今の社会のあり方はΩの可能性を摘み取るほどに過保護に見えた。が、定期的に副王ハーリドを交え首相と会談してはいるものの、今の王室は国政に関与できない。

 まずは属領からか、と。胸の中で独りごち、コンサルタント会社のブースで二、三の質問をする。

 政府に意見できる王室属領のバース政策を整え改革できれば、国政への刺激にもなろう。

 就労の推奨によるΩの自立。

 それが叶えば自ずと地位の向上にも繋がり、現在はほぼ補佐官が代行しているΩ担当官の員数も増えてゆくはずだ。

 中東地域におけるバース担当官、中でもΩ担当官の人員不足は深刻で、解決に急務を要する問題であった。

(とは言え)

 Ωの性質を思えば、早急な改善は難しい。

 
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