やさしいせかい
□tefsir al-ahlam
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渡航までにこなした、ひたすら努力の要る準備。その怒涛のような二年あまりを思えば、日々のこんなささやかな郷愁と実感でも彼にとっては一入だった。
「レン、どうかしら?」
十字に展開するアーケード、その中央広場から南側に入ったそこは色彩あふれる生地屋や仕立屋が軒を連ねている。
両裾に植物文が刺繍されたシェイラを被って、アディーバがくるりとこちらを向いた。
部屋に置くランプがほしいんだよね。と言った蓮に付き合ってくれたクラスメートとは、ともにバースサーヴァントを目指していることから意気投合、今ではすっかり親友である。
「ふふ、とっても似合ってるよ。きれいなサクラ色だね」
「まあ、サクラ? 日本で一番きれいな花ね!?」
ステキ! と。一つ歳下の少女は、それこそ花が咲いたような笑顔で喜んだ。
着ているのは歳なりのシンプルなTシャツにジーンズ、日除けのカーディガン。
実のところ、古くからの世俗主義で現在は法の上でも政教分離がなされたイスマイリアでは、普段から伝統装束で出歩く人がとても少ない。
それでも彼女のようにこうしてシェイラやヒジャブといった比較的ラフな頭巾を使う女性がいるのは、豊かな緑が目に優しいオアシス都市でも降りそそぐ陽射しは灼熱だからだ。
健康的なオリーブ色の膚に映えるその薄紅色のシェイラがよほど気に入ったらしい。会計をするとタグを切ってもらい、アディーバはさっそく髪を覆って裾を肩に回す。
「あれ? ラマダンで下ろすんじゃなかった?」
「今日だけ! きれいにしてあとはちゃんと一ヶ月間しまっておくわ!」
「あははは! 嬉しいねぇ。斎戒月だから慎まなきゃいけないけど、シェイラでおしゃれするならむしろ善行さ!」
アブー・フライラ! 愛想のいい髭面の店主がアディーバに祝福を贈る。と、今度は蓮に向かって器用に片目を瞑ってみせた。
「日本のお嬢さんもどうだい? その白い膚にはこんなオレンジ色が似合うよ?」
「まあ!」
オレンジというよりサーモンピンクに近いシェイラを広げて見せた店主に、喜んだのも一瞬、アディーバが眉を吊り上げる。
今にも食ってかかりそうな親友を、蓮は小さく苦笑いながら軽く頭を振って制した。
(まあ、仕方ないよね)
我ながら滑らかだと思う象牙色の膚、長い睫毛にけぶる大きな飴色の瞳。お世辞にも精悍とは言えないこの面立ちは、母に似てあまりに少女じみていた。お陰で歳なりの青年らしい短い髪はまったく似合わず、仕方なく濡れ羽色の髪は襟足を伸ばしている。むろん日本にいた頃から彼が女性と間違われることはしばしばで、ほぼ外出時のお約束ですらあった。
とは言え、それがこの扱いの理由ではない。
「ふふふ。せっかくだけど、さっきランプを買ってしまったから予算オーバーなんだ」
Ωの項を守るカラー。
その黒い防刃繊維を撫でながら、蓮が手にした袋を掲げてみせれば、それは残念、と肩を竦めて店主はあっさり引き下がってくれた。
が。
「ああ、もう、 外国の人に何てことをっ……。ごめんなさいね、レン。頭から女性扱いだなんて、不愉快だったでしょう?」
中央広場のオープンカフェで席に着くなり、アディーバが怒りのあまりか真っ赤になってテーブルに沈む。
このスーク名物の美しいムカルナス天井をのんびりと見上げてモカ・マタリを一口飲むと、蓮はそんな彼女におっとりと微笑った。
「渡航前から聞いてたし。確かに、ホントに息をするように女の子扱いされるから最初こそびっくりしたけど、さすがにもう慣れたよ。向こうには悪気もないんだし、おれは大丈夫だから気にしないでね」
そう、これぞまさしく文化の違いだった。
古来、中東地域は男女の役割がはっきりと分かれた社会を形成してきた。このため「子を産む性」であるΩは、その極端に臆病な性質から男性であっても総じて女性と看做され、父親や夫、あるいは番によって庇護されてきた歴史があるのだ。
二十世紀初頭の中東紛争後、立憲政体への移行を機に目覚ましい経済発展を遂げたイスマイリアでは、西洋諸国と並ぶほどに女性の社会進出が進んでいる。
そんな現代でも、Ωの脆弱な精神性ゆえにこの概念は社会の基盤に組み込まれたまま変わってはいなかった。
「ちゃんと理由を知ってるんだから、目くじらを立てるようなことじゃないよ」
「そう言ってもらえると助かるわ……。海外留学できるようなΩ男性って気が強いから、さっきみたいな場面ではトラブルになりやすくて」
「んー…渡航前にアンガーコントロールは履修してるはずだけど、一次性が強い人だとよりストレスになりやすいかも」
「そりゃあそうよ。どこへ行っても当たり前のように女性扱いされるんだもの、男性としての矜持はズタズタでしょう。同じアラブ人のΩ男性でも、後天性の人にはなかなかに受け入れがたいことなのよ?」
「純粋に男として過ごしてきた十数年があるからね」
例えば自分のような、出生時診断でΩと判定されたいわゆる先天性の男児であれば、初めから女児として育てられるのがアラブ社会の習わしだと蓮も大学の講義で学んだ。
対して二次性徴期の多感な頃にΩの判定を受けた少年たちは、体の変化ばかりか保護の名のもと唐突に周囲から女性として生きるよう求められる。その衝撃は察して余りあるというものだ。
しかし、この概念が社会の善意から発生したこと自体に変わりはない。
「……時間はかかると思うけど」
思案げに鍾乳洞を模した天井を見上げながら、ぽつりと呟く。
「イスマイリアだって小学校からのバース教育が始まってだいぶ経つでしょ? アディーバみたいに考える人は他にもいるし、これからはもっと増えるよ。いずれは社会の価値観が逆転する。周囲も当人たちも、お互いがお互いを柔軟に受け止められるようになるよ。長い歴史のある考え方だもの、急激な変化はむしろ軋轢を生むだけだし、今は自覚のある人たちが焦らず地道に土壌を作るのが大事だと思う」
「………ホント、レンが寛大な人でよかった」
顔を戻して言えば、アディーバはしみじみと溜め息を吐いた。
「バースにおける精神的性別は、主人格の意思にその選択の権利を有する―――ヒート抑制剤が作られて、国際バース規定を基に各国で関連法の整備が進んだ現代だって、多くの国や地域でこの新しい概念に人心が追いついていないのが現状だわ。もちろんイスマイリアもそう。……でもね、せめて異文化圏のΩ男性を女性扱いするのはやめなさいって思うのよ!? それがまかり通るなら、政府や観光庁が注意を呼びかけたりしないわよ!!」
「ぶふっ…ア、アディーバ、落ち着いて……」
小声のヒートアップがあまりに器用でうっかり笑ってしまった。
「焦りは禁物って言ったばっかりなのに」
「そうだけど…」
「おれたちΩ男は多かれ少なかれ傷ついてきた過去があるから、確かに難しくはあるけど。それでも異文化圏から来たΩ男にだって、ある程度のスルースキルは必要だよ。オメガフォビアでもない限り、そもそも相手は親切のつもりで、蔑んでるわけじゃないんだし。怒らず相手に恥をかかせないよう主張すべきだとおれは思ってるよ」
「……どんな風に?」
「んー…」
蓮は再び思案を追って宙空へと視線をさ迷わせた。それから、わずかに上目遣いでアディーバを見る。
「おれは日本人だし、こう見えても男だから『お嬢さん』って呼ばれるのは、少し悲しいな…とか?」
「っ……」
少しばかり困ったような面持ちで、セリフのように諳じる。と、親友は冷めかけた頬をほんのり染めて息を呑んだ。
「…さっきのお店でそれやってたら、絶っっっ対に素直に謝ってたわね、あのオジサン」
でもレンはあんまりやっちゃダメよ? と矛盾した言葉で釘を刺されたのは何故だろう。首を傾げる彼に、アディーバが今度は顔中を真っ赤にしてこっそりと囁いた。
「国や地域によっては厳しい所もあるけど、アラブ社会はわりと少年愛に寛容なのよ。イスマイリアはOKな国ね。……妻帯とは別枠だから、一次性を優先してるΩ男性は気をつけないといけないわ。日本人、それも女性に見えちゃうレンは、相手のバースに関係なく庇護欲をそそりやすいから特に」
「…………………なるほど」
何やら色々と厄介事になりかねないということらしい。そう言われてみれば大学の他の友人からも、アラブ男性にとって日本人女性の小さな鼻は品がよくて殊さら可愛らしく感じるのだと聞いたことがあった。
(あれって、もしかすると口説かれてた………?)
思いがけないお国事情の開陳に、滑らかなはずの頬が固く引き攣る。
「き…気をつけるよ」
これは後進のためにもバース課へ報告しておこう。
親友に頷きながら、蓮はそう胸の裡に決めて日本にいる自身の担当官の童顔を思い浮かべると、さっそくスマートフォンを手に取った。
そのスマートフォンが短い着信音を鳴らしたのは、アディーバを降ろしたトラムが南地区の旧市街から東地区へと差しかかった頃だ。
『前略 ご連絡ありがとうございます。
ご報告頂いた件は以前よりIVO及びJVOによって継続的に情報収集がなされている案件です。
国や地域ごとに差異が大きく、また実情と公的目線との乖離もあり注意喚起が難しい案件のため、市民レベルでの貴重な情報をお寄せ頂けてたいへん助かりました。
今後とも情報のご提供よろしくお願いいたします。
末筆ながら、お元気なご様子で嬉しく思っております。
心配や不安のある時はいつでもご相談下さい。
卒業後、都のΩ担当官としての萩原さんとお会いできるのを楽しみにしております。 草々
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東京都港区保健局バース課 二神』