やさしいせかい
□*blinds don't fear the snake*
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で。
『この中継を一緒に見るついでに、チョコレート菓子の作り方を教えなさい』
…っていう電話が入ったのは昨晩。
「……えーと。当日で間に合うのかな?」
『父さんと母さんに作るだけだから大丈夫よ』
(いや、全っ然、大丈夫じゃないよね、それ!?)
試作しなくていいのかな!? とか当然思ったよ、僕も! だけど、女王様・花梨ちゃんのご機嫌が確実に悪くなるって火を見るより明らかなら黙ってOKするしかないよね!?
(まったくもう…できないくせにプライドだけは高いんだから……)
αの人って何でもこなせちゃうイメージあるけど、やっぱり興味がなかったり今までやってこなかったことは下手くそなんだよね。花梨ちゃんは小さい頃からお勉強関係に興味が強かったらしくて、
「お料理とかハンドクラフトとか、ちっとも付き合ってくれなかったのよ」
なんて。プレゼントした聖書のカバーを撫でながら、お母さんのソフィアさんがしみじみ嘆いてたっけ。
「−−−奥寺さんに確認したら純ココアが足りないみたいだからそれを買って、ホットケーキミックスも買うよ。あと、カカオ七〇パーセントの板チョコとチョコペン、スプレードライのインスタントコーヒーの小サイズ」
超絶美味しい高級チョコレートを前払いの報酬としてご馳走になっといて何だけど。ぶっつけ本番の無謀すぎる花梨ちゃんに、僕は超初心者向けレシピを用意した。デパ地下の高級食品売場で、わざわざその辺のスーパーやコンビニでも売ってるのと同じ食材をカゴに放り込む辺りが、我ながら何ともシュールな絵面だなと思うよ……。
「バレンタインのチョコって言えば、今日は花梨ちゃん、学校でいっぱいもらったんじゃないの?」
何しろ、高飛車な性格してても花梨ちゃんは悪い人じゃない。会計に並びながら僕が訊けば、案の定美貌の女王様は当たり前みたいに頷く。
「当然よ。ただ、卒業間近のわたしが自由登校に入ることは解っていたから、みんな前以て教室に訪ねてきてくれたわ。今日は、それを教区が運営する児童養護施設に寄付させて頂いてきたの」
「へーえ…」
制服を着てきたのは、他校にお邪魔するからよって。
(こういう礼儀はさすがなんだけどなぁ……)
頭の隅っこでそんなことを思いつつ、なるほどって納得した。
「じゃあ、トトもそうしてるのかな」
何しろ「イツキ」は、日本中の女の人を虜にしてるトップモデルだ。僕の前では拗ねまくったり泣き言いったりしてみせるけど、グラビアやポスターやテレビ画面の中の彼はギリシャ彫刻みたいな美貌にいっそう磨きがかかるエレガンスを纏って、歳相応の若々しさと大人の男の萌芽を体現してる。……まあ、僕じゃ一生身につかない格好よさがあるんだよ。
首を傾げる僕に、女王様は美貌をうんざりとしかめた。
「毎年、事務所が用意する段ボール函の数が増えているようよ。SNSの公式アカウントでも、すべて施設に寄付したって毎年報告しているらしいけど。……いったい、世の女性は兄さんにどんな夢を見ているのかしら。写真や個人の連絡先を添えたって、全部事務所のスタッフがラッピングと一緒に処分するのに」
「わあ、ガチ恋勢だ。じゃあ、商品だけの剥き身にしないわけにはいかないね」
「単純にセキュリティ上の問題でもあるわ。所属タレントである兄さんの安全のためよ。世の中には、目が合ったと思っただけで相思相愛だと思い込んだ挙げ句に捨てられたって逆恨みする愚か者もいるわ」
「ひえ…」
浮わついた季節イベントの話が、途端にサスペンスホラーになったよ……!?
芸能人あるあるに震え上がったところで順番が回ってきた会計を済ませ、僕らは神取さんの運転で相澤邸に向かった。
‡ ‡ ‡
「いらっしゃい、ハル!」
「わふ」
「わふわふ!」
「こんにちはソフィアさん、お邪魔します。こんにちは、らける、まりや」
「もうっ。いつになったらマンマって呼んでくれるの? 日本人の生真面目さは美徳だけど、本当にもどかしいわっ」
広い玄関ホールに入るなり、レトリバー二頭と出迎えてくれたソフィアさんが僕をぎゅうっと抱きしめる。……ホント、こういうところ樹とそっくりなんだよね。
花梨ちゃんを小さくさらに華奢にして眼鏡をかけた感じの相澤家のマダムは、翻訳のお仕事をしてるだけあって日本語が堪能だ。
「さっき早希子さんに電話して、今日のお夕飯はウチで食べて帰ってもらうからって言っておいたの。花梨の用が済んだら、一緒にお料理しましょう?」
さらにそんなことを言って、曖昧に照れ笑いする僕にウィンクを飛ばす。ホントここん家の母と息子そっくりだな!
ちなみに早希子さんってのは僕の母さんの名前。ちょっとした経緯があって、去年の秋頃からウチと相澤家は家族ぐるみのお付き合いをさせてもらってるんだ。…気が早くないかって思わないでもないんだけど、これはこれでやっぱり嬉しいんだよね。
「−−−さ。晩ごはんの準備に差し障らないよう、さっさとやるよ」
帰ってきてからの花梨ちゃんはいきなり無口になった。遊んでほしくてそわそわ歩き回る母犬らけると娘のまりやはともかく、興味津々でダイニングからキッチンを覗くソフィアさんの視線が気になるのか、僕が何か言っても無言で頷くだけだ。
「まあまあ奥様、そんなにじっとご覧になっちゃ、花梨さんも緊張なさいますよ?」
「あら、だってこんなこと初めてなんだもの。嬉しくって」
家政婦の奥寺さんが苦笑しながら窘めるけど効果なし。
「…家庭科の調理実習とかどうしてたのさ?」
材料を揃えながらこっそり訊けば、ややあって小さく返事があった。
「……………わたし、洗い物が得意なの」
「………………」
……なるほど。これは率先して洗い物と片づけをして調理から逃げた結果、「気の利く人」っていう間違った評価をもらっちゃうアレだ。
「…じゃあ、まずはその片手鍋にお湯を沸かそうか」
吐きかけた溜め息を呑み込んで、僕は花梨ちゃんに指示を出した。
片手鍋のお湯で板チョコを湯煎しながら、別のボウルでは砂糖と溶かしバター、全卵、純ココア、ホットケーキミックス、牛乳を混ぜていく。この間、オーブンを一八〇度に予熱するのも忘れない。混ざった材料を、前以て奥寺さんに用意してもらってたクグロフ型に流し込んでオーブンへ。後は三〇分放置だから、その間に湯煎した板チョコの方に取りかかる。ボウルの中で蕩けたチョコにスプレードライのインスタントコーヒーを適量入れてヘラで混ぜ、香りが立ったところでアルミカップに注ぎ分けたら一旦出来上がり。
「粗熱とれたらトレーごと冷蔵庫に入れるよ」
もちろんその間に洗い物を済ませる。オーブンのブザーに呼ばれたら生地に串を刺して焼き上がりを確認。OKだったからケーキクーラーに上げて型を外した。
ちなみに作業開始からここまでの所要時間は一時間もない。
「ケーキが冷めたら粉糖振って出来上がりだよ。チョコは後でチョコペンでデコろうね」
はい、片づけ片づけ。ちゃっちゃとやるよって。急かす僕の横で洗い物をしながら、「ケーキってこんなに簡単にできるのね……」って、花梨ちゃんが眉間にシワを寄せつつも半ば呆然と呟いてた。その答えはYESでNOだ。初心者でも失敗が少なくて済むよう手順を省ける材料を選んだだけで、本格的に作ろうとすればもっと手順も時間もかかって失敗のリスクは高くなる。
でも、こんなこと彼女に言う必要はない。ホットケーキミックスを買った時点で、きっと作るケーキのクォリティには気づいてただろうから。それなら、自分で作って成功するイメージの方が断然大事だよ。
「ふふふ。こんなケーキの作り方があるなんて知らなかったわ。ハルは、わたしでは教えられないことを花梨に教えてくれるのね」
ありがとうって。晩ごはんの支度に取りかかる早々、ソフィアさんにこっそりお礼を言われたのが、僕としてはまた何とも照れくさかったんだけど。
「失敗してヘコむ花梨ちゃんは、何だか見たくなかったから」
……結局それが本音なんだよね。
「本当はたまにヘコませないといけないんだけど…」
そう言って、ソフィアさんが苦笑する。
「αって、難儀な性格なのよねぇ」
花梨ちゃんもだけど、失敗は許されないものって認識の人が多いみたいだ。
「樹には、あんまりそういうところはなさそうだけど」
「あの子は小さい頃から大人の間で仕事をしてきたから、未熟からの無知や失敗が許されることを体験として知ってるのよ」
「へえ…」
ソフィアさんと二人、キッチンに並んで手分けしてミネストローネの野菜を切りながら、αなのにαらしくないところの多い恋人の原点を聞けた気がして、何だか僕は顔がにやけるのを抑えられなかった。
きっと、小さい頃の樹は仕事を通じて大人といい関わり方をしてきたんだろう。それが嬉しい。
「それにしても。バレンタインデーに樹本人がいないなんて残念だったわね。ハルは、樹にチョコレートを作ってくれたの?」
キリスト教圏ではバラの花を贈ったりカードを贈ったりするらしいんだけど、日本の生活が長い相澤家の人たちにはこの日本独特の習慣に抵抗がないんだね。ソフィアさんに、当たり前みたいに訊かれて今さらながらそんなことを思った。