やさしいせかい

□*blinds don't fear the snake*
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 調香師なんて特殊能力が求められる職業に就いてる番持ちのαないしΩなんて、そんなに都合よくいるのかなってこと。だって、αもΩも嗅球の嗅覚受容体の平均数はβと変わらないし、そもそも人口の絶対数が少ないからね。

「あはは。判別できるのかな? って顔してるね」

 よっぽど僕はビミョーな表情をしてたんだろう。スタッフさんにサンプルを渡しながら、樹が可笑しそうに笑った。

「ふふふ。そこは、分析機とわたしを信じてもらうしかないわね」

「はあ…」

 曖昧に首を傾げてみせれば、マダムはパチン、とウィンクを飛ばす。

「イツキも言ってたでしょう。わたしね、『香りの魔法使い』なの。『ギィ』とわたしのために一肌脱いでくれたあなたたちに、恋人の香気を教えてあげるわ」

 楽しみに待っててちょうだい。そう言って、リスベスさんは立てた人差し指を可愛らしく振った。

 もし、本当に判るなら−−−

「…………めちゃくちゃ嬉しいかも…」

 「ギィ」の本社をおいとました僕らは、久し振りの外デートがてら樹の行きつけのお店でランチをして買い物を済ませ、御苑のマンションに帰った。

 バレンタインに約束した和食と白玉あんみつは翌日にして、この晩は赤飯とトリカラとポテトサラダ、野菜スープ……二週間くらい前にも食べたこのメニュー、マサムネがメールで樹に写真を送りつけたらしいんだよね…。

 とは言っても、唐揚げの下味にラー油は使わないけど。

「香水のことかい?」

 酒と醤油とおろし生姜を鶏ムネ肉に揉み込みながらうっかりこぼした独り言に、まりやを従えてお茶の支度をしてた樹が柔らかく口許を弛めた。…うわ、聞かれた。

「ふふふ。俺もすっごく嬉しいよ」

 顔を熱くした僕が答える前にそう言った彼も、白い頬がほんのり染まってる。

「フェロモンそのものじゃないから、α除けにはならないけど。お前が俺の膚の匂いを知って、少しでも俺をそばに感じてくれたらって思う」

「え。僕があなたの香りをつけて、あなたが僕の香りをつけるの?」

「そうさ。あの日、言っただろう? お前の膚の匂いが俺に染み込んだらいいのにって」

 そうしたら、離れてても僕が守ってあげられる−−−フェロモンなら、Ω除けになるから。

「仕事上、普段は『CORE』を使うけど。それでも、一日の終わりに使えばお前をそばに感じられるからね」

「樹…」

 僕はそそくさと手を洗うと、鶏肉のボウルにラップをかけて急いで冷蔵庫にしまった。

 その勢いで、横合いからはにかむ恋人の腰に抱きつく。

「リスベスはね。βにはめずらしく、はっきりと二次性フェロモンの判別ができるんだよ」

 何万人だかに一人の割合でそういうβがいるって聞いたことはあるけど。

「…何それ最強……」

「うん。だから、いつか作ってもらおうって思ってたんだ」

 ……でも。僕の中で樹と番う覚悟が決まらないうちはただの束縛になる。

 きっと彼は、あのミサの夜と「アンドロギュヌス」で僕の意思を確信して−−−そして、ハッキリした宣言を得た。だから、あんな風にイベントの場を借りてリスベスさんに話を持ちかけたんだ。傍で聞く分にはただのトークのネタだけど、イツキと僕の関係を知ってたリスベスさんには、すぐに見当がついただろう。

 紅茶の缶をテーブルに置いて、樹は僕の背中に腕を回した。

「ハル…俺は、お前だけの樹だよ」

「うん…でも」

 頷いて、それでもこの時ちょっとだけ天の邪鬼が頭をもたげたのは、僕も恋する男の端くれだってことでどうか大目に見てほしい。

「僕のことをちゃんと抱いてくれないあなたに言われるのはちょっとフクザツかな」

「う、や…ハル、だから、それはっ…」

「男のプライドがズタズタだよ…」

「ああっ…ホント、ホントにごめんよ、ハルっ! でも……」

 溜め息をつけば、弛く抱きしめてた腕を慌ててほどいて樹は僕の両肩に手を置いた。けど、そのままガックリ項垂れる。

「…あなたの言ってることは正しいよ」

 目の前にあるつむじにキスを落とすと、おずおずと顔が上がった。……イケメンの上目遣いってショボくれててもあざといよね!

 そのショボくれた顔に、もう一つキスを落とす。

「僕は次の学校へ進むために、まだ今の高校に通わなくちゃならない。そこでの環境が損なわれるのは、僕自身にとって本当に大きなマイナスだよ。……それは、解ってるんだ」

「…うん。でも、理屈じゃないんだよね」

 そう受けて、樹はもう一度肩に置いた手を背中に回して僕を抱きしめた。

「ごめんよ、ハル。俺が臆病なばっかりに、お前がしてくれた大きな覚悟に肩透かしを食らわせた」

「うん、ちょっと心配しすぎ。過保護」

「う…」

「でも、それがαなんでしょ?」

 懐に入れた相手、それがΩで番なら、守るために万難を排そうとする。

 僕を抱きしめる樹の手が、恭しくカラーを着けた項を撫でた。

「…お前の言ってた通り、Ω性の人は世の中と噛み合わなくて生き辛いだろうと思う。そのために内に隠って世界を閉じてしまう人もいる。俺は、Ωだっていうだけでお前の世界が閉ざされてしまうことが怖い。俺っていう楯越しにでも外を見て世界を広げてほしいんだ」

 そっと腕を弛めた恋人を見上げれば、僕を見る紅茶色の瞳が微かに揺れる。

「……ハル。俺に、守られてくれる?」

 へりくだった、懇願。

 だけど。

「樹はズルイよね…。何だかんだ言って結局は自分の意思を通すんだから」

「うっ…」

「まあ、今さらだけど」

 小さく溜め息を吐けば、「じゃあ」って言って、パッと表情が開く。その期待に満ちた顔に、一つだけ訊いた。

「ねえ、樹。僕は、あの人のひどい仕打ちを拭ってあげられたかな」

 僕をきつく抱きしめながらも慄いた震えを、僕はまだ覚えてる。

 明るくなった表情に似合いの、金色にきらめいた瞳が柔らかく微笑った。

「もちろん。当たり前じゃないか」

「なら、よかった」

「気の利かなかった俺を、赦してくれるかい?」

「んー…」

 と。僕が考える振りで軽くそっぽを向いたのは、ちょっと照れくさくなったからなんだけど。視界の端で樹が目に見えて慌て出したから、迷うのを切り上げて口に出す。

「………僕の好きなトコ、いっぱい可愛がってくれるなら、赦す…」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜もっちろんだよ!」

「って、ちょっと、樹!?」

 それこそ当たり前じゃないか! って。ぎゅうぎゅうに抱きしめられたかと思うと、今にもベッドに連れ去られそうになって慌てた、けど。

「わふ!」

 のしっ! と。腰の辺りに重みがきた。

「…まりや………」

「うん。そうだよね、まりやはお利口でお留守番してくれてたんだもんね。これからお茶するから、その後たっぷり樹に遊んでもらいなね」

「…ハル〜………」

 いい加減にあたしを構って! って、激しく尻尾を振るまりやを撫でて言えば、樹が情けない声を出して項垂れる。

「うー…まりやー…いいところだったんだよー……」

「まりやは悪くないでしょ。…はい、お茶の支度よろしくね。その間、まりやは僕と遊ぼうか」

 ベリッと引き剥がして元気なレトリバーの女の子をリビングに誘えば、恋人は「ええええぇぇぇぇ!?」ってそれはそれは盛大に嘆いた。

「ハル、あんまりだよ! 誘っといてお預けとか!!」

「じゃあ、まりやは寂しくてもいいんだ?」

「よくない!」

「なら、ベストな選択だよね?」

「うぅ〜…」

「今さらがっつくってナニ。むしろ、ある意味長ーいお預け食らってるのは僕の方だろ? ……ちゃんと可愛がられてあげるから、夜までくらい待ちなよ」

「〜〜〜〜〜〜〜ハル…! もうっ、お前って子はホントに小悪魔なんだからっ……!!」

 晩ごはんの後、僕は餡子に使う小豆を水に浸して冷蔵庫に入れておいた。ホントはそんなに長時間の浸水は要らないんだけど−−−うん。フラフラしながら昼近くに起き出して、僕がブランチの支度より先に小豆を火にかけたのは言うまでもないよね…。

 ……そして、待望の香水を受け取ったのが、四日前の日曜日。

「サンプルの匂いが消えないうちに仕上げなくちゃいけないから、スピード勝負だったわ」

 パチン、とウィンクを飛ばしたリスベスさんは、“Itsuki”“Haru”ってカリグラフィされた手書きラベルの、素晴らしくきれいなガラス瓶を手渡してくれた。

 樹と二人、まずは自分の香りを確認すれば、驚くほど似てて、お互いにもう言葉もない。

「リスベス…ありがとう。もう、他に言葉が見つからないよ」

 やっとのことで樹が言うと、マダムがチャーミングに微笑う。

「この上もない誉め言葉ね」

 それより早く早く、と。リスベスさんに急かされるまま、僕らはお互いの瓶を交換して手首に一滴、恋人の香りの雫を落とした。

「…甘い…のに、酸味……沈丁花………?」

「ふふ。樹はお菓子みたいだね、バニラに似てる」

「あなたたちの甘々具合がよく出てると思うわよ」

 温かな冷やかしに、僕らは揃って照れ笑いするしかなかったよ。

 −−−以来、僕は毎日バニラによく似た樹の香りを纏ってる。

 
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