やさしいせかい
□*傷を越えてきたお前が、俺に与えてくれたもの*
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スタッフやマネージャーの堺を巻き込んだことも頂けなかったが、ここはその後スムーズにスタジオ入りできたことをよしとする他ないだろう。
(くそっ……)
とは言え。体こそドレッシングルームに落ち着いたものの苛立ちまでは収まらず、俺は無闇にソファの肘掛けを指で叩き続けていた。
−−−四方堂さんには、確か番の方がいらっしゃったかと!
…祥のことは公表していない。むろんバース課以外にだって知る者はいるが、芸能記者にとってΩ性の人物に関する取材は一種のタブーだ。
それを。
(…見込みが甘かったか)
去年イツキが婚約を発表した時に、相手がΩと判った途端汐が引くように報道が収まったのは、「将来の番」としてその存在がハッキリしていたからに他ならない。
番の存在自体を公表していない俺とは違う。
(いるかいないか判らんΩにまで気を遣う義理はないな)
つまりは、そういうことだ。
「…あ、イツキくん来たよ。あははっ、桧山マネが小型犬よろしくキャンキャン言って記者さんたち牽制してる」
男にしては柔らかい声が笑って、物思いを破られる。時計を見れば、針は午前十一時を少し過ぎていた。
本来の入りは午後一時。突然の連絡にも関わらず、俺と大差ない時間に到着した辺り、今朝の報道を受けて事前に動いていたんだろう。
が、マスコミの動きの方が速かった。
…お陰で、有能だが小柄な女性マネージャーには気の毒な情況に陥っているというわけだ。
イツキサイドには完全にとばっちりとなったこの事態に、俺がこめかみを揉んだ時だった。
「あー…でも、イツキくんが何か言ったねえ。記者さんたちちょっと大人しくなった。…プチ記者会見、かな?」
窓から様子を窺っていた祥が、ゆっくりとこちらを向いた。
一八〇センチを超える俺とさして変わらない長身。ゆるやかにウェーブのかかった薄茶色の髪が縁どるもの優しい顔は、困ったように苦笑を浮かべている。……毎度思うが、この場にいながらモデルでないのが不思議なほど美しい男だ。
「もう少し巧いやり方はなかったの、お前? 今だって、おれに見惚れてるヒマなんかないだろ?」
「…誰が見惚れるか」
言って、ソファから立ち上がる。借りは作らないのが俺の主義だが…どうも、無関係の男にフォローをさせたようだった。
堺を留めて、一人ドレッシングルームを出る。ロビーに行けば、ちょうどスタッフにガードされたイツキがエントランスを入ってきたところに行き合っていきなり苦笑された。
「やあ、久し振り。やっちゃったねえ、カイ」
「ご挨拶だな」
下手を打ったのは俺だが、こうも面と向かって指摘されるとさすがに癇に障る。が、さっき祥に小型犬呼ばわりされていた桧山女史が、眼鏡の上でキッと片眉を跳ね上げたのを見て彼女には軽く頭を下げた。
「混乱が予想できたのに当日の連絡になって申し訳ありませんでした」
「単独会見っていう最低限のサービスすら省くからだよ。ファックス一枚じゃファンもマスコミも納得なんかしないさ。お前が自分の言葉で婚約を報告して、それ以外のプライバシーは喋らないってハッキリ言えば済んだことだ」
肩を竦め、盛大に溜め息を吐いたイツキが、だがすぐに軽く頭を振る。
「…いや。ごめんよ、カイ。本当は真っ先にお祝いを言いたかったんだ」
そう言って差し出されたのは、カッチリした白いペーパーバッグだ。
「婚約おめでとう。…これは、ウチのハルから」
「ああ、ありがとう。だが…」
ペーパーバッグの中味は、二輪のカラーとハワイアンキルトを連想させる鮮やかな緑の葉で作られたシンプルな花束……これを、小僧が?
「意外かい?」
「…正直を言えばな。祥に懐いていたろう、小僧は」
「俺のフィアンセは小僧じゃなくて暖人だよ。相変わらず本当に礼儀が解ってないね、お前は。…それに。今朝のあの子は、俺なんかよりずっと冷静だったさ」
如何にもΩらしい貧弱な体格と呑気な童顔−−−だが、必要とあれば歳上のイツキでさえ叱りつける気丈夫。
「同じαとして、実のところ俺はまだ複雑だけどね。でも、他人が口を挟んでいいことじゃない。俺たちは、二人を尊重するよ」
「そうか」
…どうも、子供と侮りすぎていたらしい。
「すまなかった。暖人くんにも、ありがとうと伝えておいてくれ」
もちろん、との返事にドレッシングルームへ先導する。
この時間、共用の広い楽屋に詰めていたのは俺と堺、ヘアメイク担当の祥だけだ。
各所への連絡が今朝だったことで、編集部が手配したスタイリストやイツキ専属のヘアメイク担当者がまだ到着していない。スタジオで、セットの設営スタッフだけが当初からの予定通り作業を進めている状態だった。