やさしいせかい

□*looking for the idol*
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 言いながら、けほん、と咳をしては喘ぐ健気なハルを抱きしめ、背中を摩りながら急いで外に出る。

 αが放つ威圧フェロモンは、吸い込むと強い筋緊張を起こす。ハルがいま喘息のようになっているのも、男どもが尻餅をついたり、まろびながら逃げたのもそのせいだ。

 交通量の多い道路脇じゃ決してきれいとは言えないけど、それでも新しい空気を肺に送り込んでやらないと…!

 景色そのものが赤く染まる中、抱えたまま背を摩り、吸って、吐いて、と呼吸のリズムを作ってやる。

「−−−はー…ビックリした」

 時間にすれば、ものの一分あるかないか。それが酷く長く感じた。

「ごめんよ、ハル。苦しかったよね」

「ちょっとね。でも、大丈夫だよ。助けてくれてありがとう、樹」

 程なく回復したハルを、ぎゅうっと抱きしめる。と、彼は素直に俺の背に手を回した。

「トイレを出た途端なんか如何にもな人が声かけてきたと思ったら、すぐ後から二人も似たようなのがきて売り込んでくるし…」

 …それで口論になったわけか。

「僕そんな気ないのに、もうげんなりだよ…」

「たぶん後を尾行られたんだ。東洋人の若い子は、ただでさえ欧米人には魅力的に見えるからね。その上お前は可愛いから、あわよくば俺から掠め盗ろうとしたんだろう」

「えー…確かに童顔だけど、僕は至って普通だってば……」

「ふふ。お前の立ち姿や微笑みがどんなに美しいか…自分じゃ見えないから解らないんだね」

 幽玄という言葉がぴったりの、滲むような微かな笑みが堪らない。さらにΩ特有の、庇護欲をそそるどこか儚い佇まいがどうにも艶やかなんだけど………怒られそうだからそれは内緒だ。

 ハルの手に、不意に力がこもった。エントランスを塞がないよう端に寄ってはいたけれど、人通りはある。俺はわずかに向きを変えて、その人通りから完全に彼を隠した。

「怖かったね」

「……ん。さすがに、力じゃ敵いそうになかったし。この人たち僕に何する気だろうって思うと怖かった。下心を隠さないところは樹も同じなのに、全然違う」

 …………いや、その言い方はどうなんだ−−−内心がっくりきたけど、でも言いたいことは解る。

「当たり前だよ。俺は心からお前を愛してるんだからね」

「知ってる。…僕の方は、その辺マイペースでやらせてもらうけど」

「…………お前、ホントに小悪魔だよ」

 でも、「知っている」というそのことが、俺を信じてるってことなんだろう。

 抱きしめた腕の中で、ハルの体は小さく震えていた。幸い男どもはβだったみたいだけど、もし一人でもαがいたら。そいつが彼をΩと気づいていたら。そう思うとゾッとする。

 場所がら最悪の事態はないにしても、カラーのないハルの項に噛みつくことはできる。もちろんそれだけでは番は成立しない。でも、項はΩの精神的な急所だ。「噛みつく」という行為で項を傷つけられることは、彼ら彼女らにとって恐怖以外の何物でもない。

 ハットをとって、ハルの柔らかな髪にキスを贈る。深く息を吐くのを感じて、そっと薄い背中を宥めた。

「帰るかい?」

「……やだ」

 胸に押しつけられた頭が弛く振られる。

「怖いままなんてやだよ。この鬼ごっこ、あなたには僕とのデートなんでしょ? だったら、楽しくいさせて」

「仰せの通りに、王子様」

 もう一度キスを落とすと、ゆるゆると顔が上がった。

「…甘ったれでごめん、樹。あなたは僕のこと男前って言ってくれるけど、僕はただの子供でこんなに弱い………」

「謝ることじゃないよ。それにお前は弱くない。お前が甘えてくれるのは、俺を信じてるからだろう? 前を向いて歩くために、信じる者の手を借りることのどこが弱いんだい? 前を向くことも、人を信じることも、本当に弱い人にはできないことだ。お前は弱くないよ、ハル」

「……………ありがと」

 ちゅ、と。可愛いおでこにキスをすれば、泣き出しそうに歪んでいた顔が、ふうわりとほぐれる。その安堵の表情も、堪らなく美しい。

 愛おしい温もりを腕に収めたまま、俺はゆっくりと港に臨む公園へ向かった。

  ‡  ‡  ‡

 夜は海から訪れる。暮れなずんだ藍色が、夕映えと灯りとに彩られたきらびやかな街へと迫っていた。

「わ…きれいだ………」

 夜景と夕景の狭間。藍色と茜色の間は色を失って妙に白々としてる。

「街の景色って夜景が持て囃されるけど。いいね、こういう眺めも」

 公園の一番奥、潮入りの池から芝生広場へと戻りながら三色に染まった空を遠く見晴るかして二人で思わず立ち止まる。

 公園を行く人影はちらほらだ。

「ハル」

 声をかけ、ハットでハルの目許を隠して二人でパチリ。色分けられた空をうまく背景にできた。

 臨港パークに着いてまず『仲直り』とキャプションをつけたカフェでの写真をアップした俺は、待ち構えていたらしいコメントに吹き出した。

『待ってました! イツキさん、みーっけ! クィーンズのカフェ! 下半分にボーダーの入った生なりのボートネックシャツにベージュのチノパンとキャスケット。ベリーのケーキ美味しそう!! それよりお友達! ホントにプライベートの仲好しですか? 事務所の後輩くんとかじゃなく? めっちゃ可愛いんですけど!? イツキさんもメチャクチャ楽しそうですね! お友達に伝票奪われてヘコむイツキさんとか、拗ねてお友達の背中に引っつきムシになるイツキさんとかレアすぎて尊い!!!!』

「…凄い近くの席にいたね、オニ………」

 くくく…と。なおも込み上げる笑いを堪えながら言えば、ハルはへにゃっと笑う。

「イツキファンって優しいね。あなたが次の写真アップするまでコメント待ってくれてたんだ」

 でなければ、ゆっくりお茶を楽しむ時間なんか消し飛んでたかも知れない。カフェに迷惑をかけた可能性もある。良識ある彼女には感謝だ。

 他のファンも同じことを思ったらしく、『プライベート顔のレアイツキを独り占めとか羨ましすぎるけどよく待った!!』と賞賛の嵐で俺のアカウントはとんでもないお祭り状態になった。

 この小さな一件が、思いの外ハルの気持ちを浮上させたみたいだ。ただ芝生と建物と海とを眺めるだけの散歩を、彼は終始穏やかな表情で楽しんでくれた。

「見つかっちゃった! ってキャプションかな、やっぱり」

「ふふふ。お礼のコメントつけなきゃダメだよ?」

 我ながらよく撮れたツーショットをハルに見せると笑いがこぼれる。すっかり落ち着いた様子に、「もちろん」と答えながら俺は華奢な肩に両腕を回して抱きしめた。

「んー…ハル可愛い〜」

「ええぇぇ…なんか今日だけで凄い密着率だよね。キスもいっぱいされたし」

「やっぱり、イヤかい?」

 本来の彼はストレート。幼くして女性に対しドライな目を持たざるを得なかったとは言え、そこは今も変わらない。

 でも。

「んー、それがさ」

 俺が身を離そうとすると、逆にハルがすり寄るように寄りかかってきた。

「そもそも日本の習慣じゃないしさ。慣れないし、正直言って恥ずかしいんだよ。けど、イヤかって訊かれると、ちょっと違うんだ」

「…違う?」

「うん。恥ずかしいから勘弁して、とは思う。同性だよって思うと複雑な気分にもなる。でも、嫌悪って意味ではイヤじゃない」

 身を起こしながら、ハルはこてんと首を傾げる。

「あなたには、こうやって触れても触れられても気持ち悪くないし怖くもないよ」

「…………嬉しいな」

 他に言葉が見つからなくて、俺はもう一度彼を腕の中に抱き込んだ。それから、剥き出しの白く繊細な項をそっと撫でる。襟足から衣紋まで。匂い立つように艶やかな、Ωのハルの急所。

「職業柄とか、それ以外にも理由があってカラーを着けないΩ性の人がいることは知ってるけど。オフの俺と出かけるために、お前がカラーを外してくれるって言った時……俺、どうしようって思ったんだ」

「だってもし樹が身バレした時、フリーのΩが一緒にいたら騒ぎになりかねないでしょ? 僕は注目されるのに慣れてるけど、さすがにゴシップとかは困るし」

「うん。それでも、人の多い場所へ行くとなると心配になったし」

 何より、一緒に出かけるのは他でもないαの俺だ。

 ハルの手が俺の背に回って、あやすみたいに繰り返し軽く叩く。

「知り合ってまだ日は浅いのに、あなたはさっき、僕のことを心から愛してるって言ったよね」

「本当だよ」

「うん。それと同じ。僕はあなたが好きで、できればずっと仲好くいたいって言ったでしょ? 僕が言う好きが、恋かどうかは疑問だけど。それでも僕は、心からあなたを信じてる。それを伝えるには、これが一番の方法だと思ったんだ」

 カラーを外して−−−一番弱い場所を、丸ごと俺に預けてくれた。

 信じてるって言われるたびに、露にされた項の理由を確信したけど。

「……ハル。俺、こんなに真摯で熱烈な愛の告白をされたのは初めてだ」

「は!?」

 愛!? と仰天するハルをいっそう強く抱きしめる。

「気づいてないの? お前は今、俺の存在そのものを愛してるって言ったんだよ」

 末永い良好な関係を望まれ、心からの信頼を行動で示され−−−捧げられたその心根を、愛と呼ばずに何と呼べと?

 
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