やさしいせかい

□*looking for the idol*
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「そりゃあね。プライベートって言いながら、結局ファンサービスみたいになってるし」

「OKしたのは僕だよ? 変なこと言うなぁ」

 俺が言うと、きょとんとした可愛い子は思案げに宙を見た。

「んー、まあ店の外の僕は飽くまで樹とは私的な付き合いなわけだけど。例えば他のお得意様から見れば、僕はいつどこで会っても『フローリスト・オガサワラ』の息子で店の顔なんだよね。相澤樹がどんなにプライベートの出先でも、『イツキ』として振る舞わなきゃいけないのと一緒でさ」

 なら、さ。と、黒い瞳がまた俺を見る。

「相澤樹のプライベートには、ファンサする『イツキ』がもれなく着いてくるのが前提でしょ?」

「…身も蓋もないな……」

 でもまったくその通りだ。世に顔も名前も売れたいわゆるセレブリティは、一歩家を出ればプライベートの時間なんてほとんどないと言っていい。

 それを大して苦に思わないのは、俺が本能的に成果や評価を強く求めるαだからだ。

 でも、ハルは違う。

「鬱陶しいとは思わない?」

「そりゃあ鬱陶しいよ。でも、それって慣れればいいだけだよね?」

 事もなげな口振りに、俺は思わず目を瞬いた。

「そういう意味で鬼ごっこはいい機会だと思って。それに僕、カラーのせいで注目されるのには慣れてるから人目は気にならないし。だからホントに楽しいよ? こんなテレビ番組の企画みたいな大がかりなアソビ、なかなか体験できないじゃない?」

 むしろ今ごろ右往左往してるファンの人たちこそ僕らのイタズラに巻き込まれたよね? とカラカラ笑うその笑顔に、ほんのりと俺の頬は熱を帯びていく。

(これって、天然…?)

 この子は、自分が何を言ったのか解ってるんだろうか。

 俺の周りには、常に人が集まる。でもそれは、飽くまでα性のモデル「イツキ」に興味を持つ人たちだ。もちろんその中から友人や恋人になる人たちもいるけれど、こんな風に私人としての俺のために「イツキ」にまで踏み込んでくれた人なんて今までいやしなかった。

「…どうしよう……」

「え、なに? どうかした?」

 エビチリと白飯を交互にパクつくハルが、赤い顔で呆然と見つめる俺に目を円くする。

「今すっごくハルにキスしたい…」

「はいぃ!?」

 嬉しい、愛しい。言葉にするならきっとそうなる。でも、湧き起こる今の気持ちをそれだけじゃ伝えきれない。

 なのに、その可愛い子ときたら。

「何言ってるかなこの人はっ。恋人じゃないし、僕は純日本人だし。なのにさっき無断でしたでしょ!」

「ほっぺにね。そうじゃないよ、お前のその可愛くて甘そうな唇がほしい」

「ハードル上がってる!? だいたい甘いわけないじゃん、今したら確実にエビチリの味がするよ!」

「ならデザートの杏仁豆腐食べてから」

「だから何でキスする前提なの!?」

「俺がしたいから」

「うわ…さすがはα、何気に俺様っ……」

 箸を握りしめたまま、ハルはがっくり項垂れた。

「もー…何だってそんなにキスしたいのさ…?」

 俯いたまま訊くその表情は解らないけど、髪から覗く耳は真っ赤だ。…うん。俺だって半分は日本人だし日本の生活長いから、日本人が恋人じゃなきゃ頬にもキスしないってことくらい知ってるよ。

 だけどさ。

「…好きって気持ちが高じたら、言葉だけじゃ表せないよ」

「今の会話のどこにその要素があった」

「無自覚なんだ」

 結構すごいこと言ってくれたのにね。

「俺ね、今まで何人かの女の子と付き合ったことあるけど。デート中のファンサービスにいい顔されたことないんだ」

「そりゃそうでしょ。でもそこはカノジョさんも流さないと」

「うん。ファンの子も、話しかけたりする子はそんなにいなくて、たいていは軽く手を振ってくれるだけとか、会釈だけで済ませてくれてたんだけど」

「…まさかそれも?」

 そろりと顔を上げたハルの下がり眉は訝しげに寄っていて、思わず苦笑がもれた。

「俺のフォローが足りなかったかな」

 遠回しに肯定すれば、「なにそれ」と、ふっくりした可愛い唇がへの字に曲がる。

「プライベートなんだから私だけを見て、とかいうやつ? ファンがいるから成り立つ仕事の人にファンサするなとかムリでしょ。その人たち、ホントにあなたのこと好きだったの?」

「うーん。いま振り返ると自信ないな」

 同じモデルやメイクのアシスタント。仕事を通じて知り合った子たちだったから、プライベートの確保が難しいことは解ってくれていると思ってた。恋人の独占欲と思えば可愛くもあるけれど、じゃあ俺がモデルからビジネスマンに転身しても彼女たちがそばにいてくれたかと言えば、ちょっと怪しい。

 求められるのは華やかな集まりとスマートなエスコート、洒脱な会話に甘い囁き。あの子たちといる俺は、間違ってもランチに税込み九〇〇円のエビチリ定食なんて選ばない。

 α性の名の知れたモデル−−−そのステータスに傅かれることが、彼女たちにとっては愛されている証だったのかも知れない。だとすれば、俺は見映えのするアクセサリーか。

「…樹って、実は女の人を見る目がないんじゃない?」

「ホントにハッキリ言うね。でも、男の子を見る目はあったみたいだよ?」

 恋かどうかは疑問って言われたけど。それでも過去の恋人たちより、ハルの方が何倍も俺という人を好きでいてくれてるのは間違いない。

 嬉しくて、自然と頬が弛む。と、可愛い想い人はまた茹で上がった。その顔が、ふいっとそっぽを向く。

「い…樹はさ、その……そういうシュミも、あるの…?」

 …そういう。

「バイセクシャルかって訊かれたら、答えはノーだよ」

 元来の俺はストレートだ。

「たまたま好きになった子が、ハルっていう男の子だっただけさ」

 そしてたまたま、その子がΩだっただけだ。

「男の子だからとか、Ωだからとかいう理由で口説いてるわけじゃない。……お前は、相澤樹に歩み寄ってくれただろう?」

 モデルの「イツキ」には目もくれず。

「…だって、それは」

 真っ赤な顔は変わらず、ハルはちらりと横目に視線だけを寄越して、ポツリと呟いた。

「あなたがそうやって、ただの僕を見てくれるからだよ」

 それから、ゆっくりと顔を戻す。

「男なのに子供を産めるめずらしい生き物じゃなく、人として僕を見てくれるからだ」

「っ……」

 だから、僕もただのあなたと相対したかったんだよ。と照れくさそうに微笑うハルに、俺の胸はぎゅうっと引き絞られた。

 礼儀正しく、朗らかなハル。彼の家族も店員も、得意客だってみんな彼に優しい。

 だからと言って、ハルが傷ついてこなかったわけじゃない。俺の知らない彼の世界には、きっと不躾な輩だっている。

 でも、それを哀れに思うのは間違いだ。そんな上から目線の同情、ハルに限らずΩ性を生きる人たちへの侮辱でしかない。

「……そんな風に言ってもらえるなんて、嬉しいな」

 知らず詰めていた息を吐いて、俺も小さく微笑った。

「ねえ、ハル」

「ん?」

「俺、こんなに胸を締めつけられるほど強く誰かを愛しいと思ったのは初めてだよ」

 「愛しい」と書いて「かなしい」と読む。以前、日本語の古語に首を傾げたことがあったけど、今なら解る気がする。きっと「いとしい」と「かなしい」の琴線はとても近いところにあるんだ。

 今、俺はどんな顔で微笑ってるんだろう。いっそう真っ赤に茹で上がったハルが、ちょっとおろおろしてるのが可笑しい。小さく吹き出すと、困った顔になってしまった。そんな情けない顔も可愛いって思うのは惚れた欲目かな?

「可笑しいな。お前を落とすって言った俺の方がどんどん落とされてるなんて……なのに、嬉しいんだ」

 今までの恋は、ふわふわ甘くて楽しかった。失くした時は残念だったし寂しくも思ったけれど、その瞬間にだってこんなにも切ない愛しみを感じたことはない。

 大事にしてるつもりでいた、恋をしてるつもりでいた−−−たぶん俺は、本気で人を好きになったことがなかったんだ。

「ハル」

「うん?」

 あらためて呼びかけると、愛しい子は困った顔のまま小首を傾げた。

「唇にキスはしないよ。……まだね」

「じ…時限的なんだ…」

「うん。だって、恋人になったらOKだろう?」

「……………………まあね…」

 何かな、そのうんざりした返事。ちょっと可愛くないなぁと思ったけど、今は不問に付しておく。

 それよりも。

「恋人のキスは我慢するよ。だから、ハグと親愛のキスは許してくれないか」

「は…」

「そう。ハグと…挨拶のキスって言った方が解るかな?」

「ハグだけとかは…」

「無理。気持ちがあふれたらついキスしちゃうから、初めから許可がほしい」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

「お願いだよ」

 ダメ押しに言葉を接いで両腕を大きく広げる。と、ハルは凄まじく複雑な顔で俺を見つめ返したまま、ようようの態で口を開いた。

「…とりあえず」

「うん」

「ごはん食べ終えてからね…」

「………うん、そうだね」

 うっかり中断していた食事を再開した俺は、緊張でぎこちない愛しい子を時おり盗み見てはくつくつと喉の奥で笑った。恨めしげに睨まれたけど、もちろん全然怖くない。

(大事にするよ)

 胸の裡でそう誓いながら、細い肩をとびきり優しく抱きしめて、形のいい額に羽根のように軽く唇を落としたのは、ちゃんとデザートの杏仁豆腐までを食べ終えてからだ。

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